【秩父古道歩き】 21番 : 観音寺へ向かう
●今回は、20番から徒歩で21番 : 要光山 ようこうざん 観音寺 かんのんじ に着くまで
& お寺での記録です。
& お寺での記録です。
20番:岩の上堂に着いたのが、10時。
参拝してウロウロした後にベンチで早めのお昼。 おむすびを一つ口にしました。
出発は、だいたい10時40分。
参拝してウロウロした後にベンチで早めのお昼。 おむすびを一つ口にしました。
出発は、だいたい10時40分。
来る時に下りてきた裏山の階段を再度、上りきったところで右を見ると、
件の 「崩落してしまった徒歩巡礼道(古道)の案内板」 が↑ありました。
次の札所へは、反対側、階段を上ったら左に進みます。↓こっちね(^^)
道筋のイメージは、荒川上流に向かって平行に進んでいく感じ。
途中↓こんな風に 「徒歩道」 が残っています。
もちろん、この古道を歩く。
でも、あっという間に車道に合流。
「次の札所へは、車道を進むのよ!」 という、手作り感満載の↑案内板です(^^)
右手に↑この案内板が見えてきたら、21番:観音寺はあとすこし!
つきあたりに道しるべがあり、
それより一段高い位置に、垂直に道路が走ってて・・・(ガードレールが↓それです)
それより一段高い位置に、垂直に道路が走ってて・・・(ガードレールが↓それです)
道なりに進んで高い道にでれば、21番:観音寺が見えます。
扁額にも青字で↑ありますが、この札所は別名 「矢之堂」 というのだそうで、
お堂の軒下にあった鬼瓦にも
お堂の軒下にあった鬼瓦にも
鬼ではなく 「矢」 の紋が↑入ってます。
個人的な印象としては、
お寺さんの敷地に対して、建物や石碑の数(量)が多く、
特に石系は 「どうしようもないので一ヶ所にまとめました(TT)」 っていう感じなんです。
お寺さんの敷地に対して、建物や石碑の数(量)が多く、
特に石系は 「どうしようもないので一ヶ所にまとめました(TT)」 っていう感じなんです。
境内の案内板には、
「大正12年(1923)隣接する小学校火災により (本堂?観音堂?は) 類焼。」
とあるので、観音寺の北側にある尾田蒔小&尾田蒔中までが、
かつては八幡宮の社地だったんではないかな~と、勝手に思いました。
「大正12年(1923)隣接する小学校火災により (本堂?観音堂?は) 類焼。」
とあるので、観音寺の北側にある尾田蒔小&尾田蒔中までが、
かつては八幡宮の社地だったんではないかな~と、勝手に思いました。
そうすると、学校敷地の裏(山側)に神社があるのも
何となく勝手なイメージの中では納得できるのよね・・・。
その妄想の延長上で、
観音寺本堂とは別に、札所観音堂も、もう少し山の中腹(高い位置)にあったんじゃないかと~
何となく勝手なイメージの中では納得できるのよね・・・。
その妄想の延長上で、
観音寺本堂とは別に、札所観音堂も、もう少し山の中腹(高い位置)にあったんじゃないかと~
観音寺の前の大通り(県道)を挟んだ反対の敷地には、
田舎千両と称えられた大和座の役者、中村十九十郎さんのお墓が↑ありました。
地芝居(歌舞伎役者)だということまでは、わかるのですが、
いかんせん不勉強なので(^^;)検索かけてみたら
田舎千両と称えられた大和座の役者、中村十九十郎さんのお墓が↑ありました。
地芝居(歌舞伎役者)だということまでは、わかるのですが、
いかんせん不勉強なので(^^;)検索かけてみたら
荒川を隔てたこちら側は、小鹿野や神川などとの繋がりを色濃く残しています。
たとえば、「矢之堂」のいわれ(その2)だと、
古い時代、矢納村(現:神川町矢納)にあった堂をこの地に移したもの。
というのもあるんデスね。
古い時代、矢納村(現:神川町矢納)にあった堂をこの地に移したもの。
というのもあるんデスね。
長い年月の中で、人や文化の交流が縦横に重なってるイメージです。
矢納村については、神川町のHP内 「矢納の地名のいわれ」 をチェック!
【参考資料】
「秩父市教育委員会の案内版」 各寺境内にある説明文を参考にさせていただいてます。
「秩父札所連合会公式サイト」 http://www.chichibufudasho.com/
「ちちぶおもてなしマップ 江戸巡礼古道篇」 pdf 出力したもの
「神川町ホームページ」 http://www.town.kamikawa.saitama.jp/index.html
「秩父札所連合会公式サイト」 http://www.chichibufudasho.com/
「ちちぶおもてなしマップ 江戸巡礼古道篇」 pdf 出力したもの
「神川町ホームページ」 http://www.town.kamikawa.saitama.jp/index.html