【秩父古道歩き】 22番 : 童子堂のこと①:縁起など
【注意】
この記事は、2014年5月に歩いた記録がベースになっています。
後日に撮った写真も加えてありますが、
現在の状況を反映している情報ではないことを御了承ください。
この記事は、2014年5月に歩いた記録がベースになっています。
後日に撮った写真も加えてありますが、
現在の状況を反映している情報ではないことを御了承ください。
この堂の歴史は、長くて深くて・・・追いきれなかった(^^;
私が理解(?)した範囲ですが、縁起&変遷を時系列でお付き合いください♪
遍昭さん(百人一首のお坊さま・こちらは桓武天皇の孫)が、
この土地の領主に命じて、蒔田村(現:秩父市蒔田)清水谷の奥に
花臺山(華台山)として草創されたもの という縁起です。
遍昭さんの出家したのが850年なので、多分、それ以降のお話ですね。
この土地の領主に命じて、蒔田村(現:秩父市蒔田)清水谷の奥に
花臺山(華台山)として草創されたもの という縁起です。
遍昭さんの出家したのが850年なので、多分、それ以降のお話ですね。
別の日(2015年2月)に、時間をとって確認してきたんですが、
こちらが地元の方に訊きながら教えてもらった登山口。
こちらが地元の方に訊きながら教えてもらった登山口。
写真左側↑沢に沿って雪の残っているところが、それ♪
「20分ぐらい登ると、お寺(お堂)があったという平らな場所があるよ(^^)」
と、教えていただきましたが、
ご覧のように雪が残っていて、そもそも寒かった。→遭難する(大袈裟
と、教えていただきましたが、
ご覧のように雪が残っていて、そもそも寒かった。→遭難する(大袈裟
「春になったら登りにいらっしゃい(^^)」
という、ありがたいお声を頂き、再訪したのは2015年4月でした。
こちらの記録は、また別記事にしたいと思います。
という、ありがたいお声を頂き、再訪したのは2015年4月でした。
こちらの記録は、また別記事にしたいと思います。
ちなみに地元の方は「昔、お寺があった山」という話はご存知でしたが、
その山を「清水谷」とか「清水山」とは、特に呼ばず、
山から落ちてくる沢(谷筋)を「清水沢」と呼んでいるそうです。
その山を「清水谷」とか「清水山」とは、特に呼ばず、
山から落ちてくる沢(谷筋)を「清水沢」と呼んでいるそうです。
時代の流れ&人々の生活と共に「谷」から「沢」の方に重点が置かれるようになったのかな?
と感じました。
と感じました。
で、
延喜15年(915)この地に疱瘡(天然痘)が流行したとき、
観音さまのお告げで
「この堂を里の近くに移せば、世の子どもたちの命を救おう」といわれ
急ぎ府坂(ふさか)峠の近くに移し、皆でお参りをしたところ流行は止んだ。>ピークを過ぎた・・・?(^^;
延喜15年(915)この地に疱瘡(天然痘)が流行したとき、
観音さまのお告げで
「この堂を里の近くに移せば、世の子どもたちの命を救おう」といわれ
急ぎ府坂(ふさか)峠の近くに移し、皆でお参りをしたところ流行は止んだ。>ピークを過ぎた・・・?(^^;
観音様、山の中のお堂では淋しかったんですかね(^^;)
その「府坂」がどこかというと、
清水谷から現在の童子堂へ向かう時に越える丘陵地が「府坂峠」と呼ばれています。
つまり
府坂という丘陵地を越える道すじに童子堂があったということになるのですが、
この場所が複数の資料を見てもよくわからなくて(^^;)
清水谷から現在の童子堂へ向かう時に越える丘陵地が「府坂峠」と呼ばれています。
つまり
府坂という丘陵地を越える道すじに童子堂があったということになるのですが、
この場所が複数の資料を見てもよくわからなくて(^^;)
実際、何度か足を運んだのですが、なかなか地元の人に遭遇できず、
確認を取ることが叶わないながらも
「たぶん、ここなんだろうな・・・」という道路脇の平坦地は↓ここ。
確認を取ることが叶わないながらも
「たぶん、ここなんだろうな・・・」という道路脇の平坦地は↓ここ。
それにしても縁起では、
お堂は清水谷から里の近くに移動した は ず なんですが、
府坂峠を越えた先の↑この場所は、あくまでも丘陵地帯の上層部。
あえて言うなら、丘陵の尾根に沿って続く旧巡礼徒歩道の脇にあたる位置です。
もしかしたら、
巡礼の都合(?)での移動だったのかもしれないですよね。>勝手な妄想です(^^;
もしかしたら、
巡礼の都合(?)での移動だったのかもしれないですよね。>勝手な妄想です(^^;
やがて鎌倉仏教が興り、武士が台頭していく中で禅宗派も広がっていきます。
昔の番付である「長享番付」(1488)には、「18番 童部堂 栄福寺」 とあるので、
室町末期には、観音堂をお世話(管理)する別当寺も存在していたことになります。
昔の番付である「長享番付」(1488)には、「18番 童部堂 栄福寺」 とあるので、
室町末期には、観音堂をお世話(管理)する別当寺も存在していたことになります。
西陽山 栄福寺は、現在名:永福寺。
真言宗豊山派のお寺さんで、
「童子堂の入り口の地蔵尊から県道を隔てた反対側に栄福寺があったといわれるが、
現在は「虚空蔵菩薩」の碑が残るのみである。」
と、
秩父札所連合会公式サイトに載っているので探してみたけど
その「虚空蔵菩薩」の碑は見つからなかった・・・。
真言宗豊山派のお寺さんで、
「童子堂の入り口の地蔵尊から県道を隔てた反対側に栄福寺があったといわれるが、
現在は「虚空蔵菩薩」の碑が残るのみである。」
と、
秩父札所連合会公式サイトに載っているので探してみたけど
その「虚空蔵菩薩」の碑は見つからなかった・・・。
童子堂入口にある大きなお地蔵さまの路地を挟んだ隣には↓「上寺尾町公会堂」があって、
県道を挟んだ斜向かいに↓旧公会堂っぽい(←思い込みで未確認です)建物があるんです。
さて、この栄福寺、
『新編武蔵風土記稿』には、
「栄福寺 西陽山と号す、新義真言宗、榛沢郡本郷村(現:深谷市)東陽寺の末、
本尊弥陀を安ず、開山南光寂年月を伝へず」
『秩父志』には、
「永田山 栄福寺 弘光寺(現:深谷市)の末寺」とあります。
『新編武蔵風土記稿』には、
「栄福寺 西陽山と号す、新義真言宗、榛沢郡本郷村(現:深谷市)東陽寺の末、
本尊弥陀を安ず、開山南光寂年月を伝へず」
『秩父志』には、
「永田山 栄福寺 弘光寺(現:深谷市)の末寺」とあります。
「西陽山」に「永田山」と、栄福寺の山号が異なるわ~
「東陽寺の末」に「弘光寺の末寺」と、記録が異なるわ~
で、
引き続き『新編武蔵風土記稿』をひっくり返して確認してみたら、
「東陽寺(本郷村)」は、「弘光寺(針ヶ谷村)の末寺」に当たることが判明。
これらは、旧岡部町の隣同士にあたる地区に↑あるお寺さんでした。
「東陽寺の末」に「弘光寺の末寺」と、記録が異なるわ~
で、
引き続き『新編武蔵風土記稿』をひっくり返して確認してみたら、
「東陽寺(本郷村)」は、「弘光寺(針ヶ谷村)の末寺」に当たることが判明。
これらは、旧岡部町の隣同士にあたる地区に↑あるお寺さんでした。
現在も「童子堂跡地」ということで↓看板があります。
記述にあるように↑「ここより北へ100メートルほど」道を登った右手に、
上で述べた(私の勝手な)比定地があります(^^;
看板にある「奥の院の跡や礎石」は判別できませんでした。
道をもう少し上がると琴平社の祠がありますが、
奥の院は「薬師堂」と資料にあるので、ちょいと違うかな?
でも、
童子堂跡地の片隅には、石塔がひとつ↓確認できました。
道をもう少し上がると琴平社の祠がありますが、
奥の院は「薬師堂」と資料にあるので、ちょいと違うかな?
でも、
童子堂跡地の片隅には、石塔がひとつ↓確認できました。
明治末期から100年以上、ここで留守を守っているんですね。>さみしい・・・かな?
そして、江戸末期に建てられた仁王門も
大正2年(1913)現在地に移動。
そのとき、仁王像作者の息子、梅沢久次郎さんが供養のために像に色を付けたんだそうです。
大正2年(1913)現在地に移動。
そのとき、仁王像作者の息子、梅沢久次郎さんが供養のために像に色を付けたんだそうです。
童子堂のシンボル(?)とも言える仁王さまについては、
別記事がありますので↓そちらもご覧ください。>写真も貼り足してあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/64719330.html
別記事がありますので↓そちらもご覧ください。>写真も貼り足してあります。
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/64719330.html
お地蔵さまのちゃんとした写真を撮ってなくて、ごめんなさい。
>検索かければ、きっとネット上に画像はあります・・・
>検索かければ、きっとネット上に画像はあります・・・
童子堂へのルートを記録した記事の↓9枚目の写真に小さく写り込んでるお地蔵様です(^^;
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/64713094.html?type=folderlist
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/64713094.html?type=folderlist
もう、継ぎ接ぎだらけの記事で申し訳ない・・・
というわけで、この記事は2017年2月6日にUPしたものですが、
改めて読み返したら
「長い・・・。長すぎる。」と、単純に思いましたので(^^;
後半部分は、別記事に移動しました。
改めて読み返したら
「長い・・・。長すぎる。」と、単純に思いましたので(^^;
後半部分は、別記事に移動しました。
【参考資料】