毎日が夏休み in 熊谷

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札所1番 : 誦経山 ずきょうさん 四萬部寺 しまぶじ

●1日目 : 和同黒谷駅 ~ 1番 ~ 2番 ~ 3番 ~ 18番 ~ 大野原駅

●今回は、1番寺での記録です。

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曹洞宗のお寺さんで
札所本尊は、聖観世音菩薩


「今回は真面目に地図を使って歩こう!」 と、
国土地理院地形図1/25000を引っ張り出したのが、そもそもの始まり。
じつは、この↑地図、
「古いし、捨てようと思ってたけど、よかったらどうぞ(^^)」 と、
とある御方から埼玉県分をドサッといただき、数年(床ですゴメンナサイ)放置しているもの。

今回、まじまじと見たら 「昭和56年(1981)発行」 とか書いてあって、
ためしに見た熊谷の地図は、新しい道は全くと言っていいほど開通してない状況で、
違う意味で貴重品。 うは~♪>この件は、また別の機会に・・・

で、札所1番の四萬部寺は、どこかな~?と探したんですよ。
そしたら地図上に 「四萬部寺」 は書いてなく、その場所にあるのは↓「妙音寺」 の文字。

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ホワ~イ?と同時に、私好みの 「掴み」 の来た感がザワザワと~♪
あ、
黄色のマーカーは歩く予定の道。私の下手な赤文字は気にしないで~(TT)


私の中の「東国の寺院変遷の流れ」は、
国分寺の時代の後には天台宗真言宗のお寺が建てられ、そのあと鎌倉仏教、そのつぎに禅宗
が、
だいたいの理解なので>突っ込まないでください・・・
何百年という時間と戦乱や火災などの出来事を加えれば、
現存するお寺の、名前や宗派が変わったりするのは普通にあること(^^)

「で、何ゆえに<妙音寺>なのかな~?」 が、今回のスタートとなりました。


まずは、山門の前で一礼して、仰ぎ見てみる。
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山門の扁額、右から左に読みます。
「誦法○経山」 「ず・・・きょうさん?」 すでにこの時点で、読めません(TT)
でも、ホラホラ♪
ガイドブック等には 「誦経山 四萬部寺」 とあるのに、異なる山号が掲げてあるでしょ?
「誦経山ずきょうさん」 のはずなのに、漢字5文字のお山の名前。>でも読めない・・・

あ、今気づいたけど扁額下の提灯、「午開総歳帳」 になってません?(^^;)


四萬部寺の名(縁起)は、
「4万部の仏典を読誦し経塚を築いた」 ことに由来してるのですが、
これを 「いつ」 「誰が」 の点では、資料によってバラバラです。 hahaha~楽しいね♪

秩父札所公式サイトには
「永延2年(988)性空上人の弟子である幻通」が開山。

・廣見寺サイトには
「正暦5年(994)性空上人」が開山。

秩父市教委案内板には
「寛弘4年(1007)性空上人の弟子である幻通」が開山。


性空さんという御方は、検索かけると色々出てきますが、
大雑把に言うと(←ごめんなさい)法華経を書写して悟りをひらいた天台宗のお坊様。
寛弘4年(1007)に98歳で亡くなったとされています。
つまり、永延2年(988)でも御年79歳なので、
性空上人の弟子である幻通が、師の命を受けて東国にやってきたとするのが妥当。
ただしそれが何年(いつ)なのかは~
・・・参考になりそうな資料もあるのですが、今回は時間切れ。

そんなこんなで、
「4万部の法華経を読誦(どくしょう:読経する意味)」 したのは、
弟子の幻通さんになるんでしょうけど、
個人的に気になったのは
「4万部」 って書物量的に、どんだけなのかと。

経典を一定の巻数で 「一部」 とし、それを4万回読誦したとしても、苦行。
もしくは
「さぁ、読誦するぞ!」 と、
一定の巻数で「一部」とした経典を4万部準備する時点で、重いわ&かさ張るわで苦行。
というか、読誦に入る前に写経するんでしょ? よんまんぶ・・・。

気象衛星も天気図もなく、医学疫学もそれほど発達していなかった時代、
頼みは神仏であり、願う祈るを 「行」 に乗せた背景を思うと
「三千世界」 と同義の 「4万」 なのかなぁ~とも、感じました。


観音堂(本堂)は、元禄10年(1697)建立。秩父札所で唯一の埼玉県指定有形文化財
今年は午年の総開帳なので、観音様の御手とつながるよう本堂前に御手綱↓がきています。

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「正面欄間の地獄極楽の彫刻は必見」 と札所公式サイトに書いてあったので見る。
こっち地獄↓

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こっち極楽↓

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どっちも楽しそうに見えるんですが・・・(^^;)
彩色の名残が残っているので、昔は説法的にリアルだったんだろうな~と思いました。
細工は、ものすごくっ細かいです。
江戸期の職人さんが、ネ申 だったんじゃないですかネ・・・。


観音堂に続く右手には、
大きな方形の屋根の下に↓八角堂形式の厨子があって、正面には「施食殿」の額。

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光っちゃったんだけど、画面右の看板には説明文が↑あって、
毎年8月24日、このお堂で 「大施餓鬼会だいせがきえ」 が行われるんだそうです。


話題をお寺の名前に戻しますね(^^)

廣見寺さんのHPに
http://www.chichibu.ne.jp/~kokenzi/

四萬部寺と妙音寺について述べているページがあって、情報をかいつまんで書き出すと、

・正暦5年(994)「法華山 四萬部寺 回向院」 は、性空上人によって開山。
秩父札所第1番となったが、その後の時代に荒廃。
・後年 「誦法華経山 四萬部供養寺」 と名付けられ、御堂を再建。
・文亀3年(1503)札所1番の(←四萬部寺の)別当寺として、
 栃谷に 「誦経山 妙音寺」 を開山。 本尊は地蔵尊

別当とは 「神社やお寺の世話&管理をすること(役職)」 の意味があります。


そこから推測すると
寺院の規模としては、四萬部寺 < 妙音寺 となり、
今とは違う場所にあった四萬部寺が、妙音寺の境内に合併(?)され、
札所一番の都合、妙音寺の名前を下げて、四萬部寺を掲げた。
で、妙音寺の山号 「誦経山」 は残した。

でも本来の四萬部寺の 「誦法華経山」 の山号は、ちゃんと現在の山門に揚げている。 

ということで、
はじめ読めなかった扁額のお山の名前は 「誦<法華>経山」 だろうと・・・
「ずほけきょうさん」の発音でいいのよね(^^;)
現地確認できてませ~ん

つまり、
四萬部寺の本尊、聖観世音菩薩は観音堂(本堂)にいらっしゃって、秩父札所1番の御方。
妙音寺の本尊、地蔵菩薩は(きっと)施食殿(八角堂)の厨子の中にいらっしゃって、
先述した8月の大施餓鬼会の御方。

と、
勝手に想像を膨らませました。
事実は知りません。 確認もしてません。 ごめんなさい。
私、妄想するのが好きで&楽しいんです(^^;)それだけです♪


観音堂前でお参りをしたあと、
境内右手の庫裡に売店(と言っていいのですか?)があるので、
そこで今回の一番のお楽しみ>不謹慎をお詫びします
納経帳を選びます(^^)♪

装丁や綴じ方、中の和紙の種類が色々あって、1200円~1500円。
私が選んだのは和綴じの紫。この画像だと↓青が強いかな~(^^;)

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秩父霊場専用の御朱印帳となります。

あと、総開帳の記念イベントなのかは、わかりませんが(^^;)
各お寺さんで、参拝者に散華(さんげ)を頒布してくださいます。
散華を貼りこむ専用の台紙もあったのですが、今回は朱印帳に貼りこんで↓いくつもり♪

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御詠歌の脇にちょこんとね♪


話をお寺に戻します。
こちらの庫裡、境内で1番大きい建物で、しかも2階建。
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てっぺんの瓦に 「一番」 とかあって、歴史のありそうな趣のあるたたずまいでした。


お寺だの神社だの石碑だのの前では、たいてい長居する私ですが、
今回も例にもれず、境内をめぐります。
具体的には、観音堂(本堂)の裏側に行きます。

そこには、
戦没者慰霊碑や(多分GHQを意識して壊された)忠魂碑の一部。
数えきれない小さなお地蔵様を抱える裏山がありました。

小道があるので登ってみたら、
丘の上の1番奥には、法華経一千部供養碑(中央)↓などの石碑群。

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右奥に見える青い屋根は、隣りの八坂神社敷地内の建物。>おじさんたちが屋根の修理中でした。
お寺と神社がお隣同士。
神仏混合だった時代の名残をみる思いです。


最後に、素敵♪と思った石碑を紹介(^^)「栃谷学校址」の碑。

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四萬部寺の一番近くにある市立高篠小学校のサイトで沿革を見たら、
明治初期の小学校が、四萬部寺内にあったのね(^^)
多分、庫裡を校舎として勉強したんだろうな~♪



【参考資料】

秩父市教育委員会の案内版」 各寺境内にある説明文を参考にさせていただいてます。
秩父札所連合会公式サイト」 http://www.chichibufudasho.com/
ちちぶおもてなしマップ 江戸巡礼古道篇」
廣見寺 http://www.chichibu.ne.jp/~kokenzi/
秩父市立高篠小学校 http://www.city-chichibu.ed.jp/takashinosho/