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土地に残る家名を辿って【星宮夜雨】其の一: 熊谷八景④

星宮夜雨(ほしみややう)
夜雨 : rainy night というよりは、night rain ・・・の他に説明のしようがないですね(^^;)

「八景」については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54763151.html


現在、熊谷市内の地名で「星宮」というと、池上・下川上地区を指しますが、
熊谷市街地で、かつて「星の宮」と呼ばれた場所がありました。
今回は、その旧跡を追いかけてみました。

まず、熊谷市指定文化財に『熊谷町古絵図』という宝暦2年(1752)の絵地図があるのですが、
そこにはしっかり「星の宮」の地名と小さなお宮の絵が載っています。
興味のある方は『熊谷市史 前編』のp557をご覧ください。
私の知る限りでは、一番クリアな「縮小謄写版」です。>一度でいいから実物を見たいなぁ・・・

現在地に置き換えると、
市内筑波地区、熊谷女子高校の南側近辺が「星の宮」だったと比定できるらしく、
熊谷市史 後篇』には、要約すると、
「専売公社(現JT)の傍、一坪ほどの地に榎の古樹と「星野宮」の石祠がある」と、なってます。

ありし日の、星の宮の石祠の写真は『熊谷市銀座史誌』に載っています。
興味のある方は、市立・県立図書館双方に↑ありますから、そちらをご覧ください。
そして
現在、熊女南側には、そのような榎や祠は見当たらないので、まずはJT事務所に突撃。
もちろんノーアポ(^^;)
資料のコピーを片手に、手掛かりがないか聞いてみましたが、・・・残念、手掛かりなし!
JT社員さま、その節はありがとうございました。

こうなると、後はやはり地元の人頼み。近くの自営業のお宅、数軒に伺ったところ、
現在のJT西隣にある駐車場は、かつてJTの寮が建っていたらしいのですが、
その頃には、星の宮の祠は確かにあったのだそうです。

イメージ 1

ここが、その該当する現況↑なんですけど、
寮が撤去された時に、祠と榎も、この場所からなくなってしまったとのこと。
昭和60年(1985)より少し前(58年ごろ?)の話だそうです。
熊女卒の方、もしくはその昔↑この通りに馴染んでらした方、情報大募集です!
ホントに祠と榎、ありました? 私は熊女でないから、ワカリマセ~ン(TT) 
昔あったキンカ堂にはよく行きましたけど、私、そこから東方面の記憶(映像)が、ないんです・・・

それにしても星野宮の祠、今はどこにあるんでしょうねぇ。
地主さんにお話を伺うのが一番確実だけど、
なんだかそこまで追跡するのは、私の<趣味>の範疇ではない気がするし
第一、祠の現在を探しだして、私はどうするつもりなんだ?・・・って感じでしょ?
純粋に「祠を見たい(会いたい)」という興味だけでは、突き進めない時もあるんですよね~
なので、この件↑については、保留。

でも、
祠の由来については、一応近づけたので、それについて書きますね。

石祠の銘は、正面に「天正九年□月十三日」「梵字 星野宮」「星野外記長宣祭此地」の3行
側面に「星野重郎左衛門豊軌建之」

この文言からすると「星野外記さんのことを星野重郎左衛門さんが祀って祠を建立した」
ということなのですが、ところで一体どなたですか・・・? が、正直なトコロ(^^;)

資料に「星野氏は成田氏の一族(家族)」とあったので、まずは『成田分限帳』にアプローチ!


分限帳(ぶげんちょう)とは、云わば「家来衆名簿」のことで、
「成田」の冠がついていると「成田氏を主君とした武士」が載っています。
ただし、禄(地位財産)が少ない人は記載されないことが常だったようです。
例えば、
私の母方の実家は、伊達藩の下級武士でしたが、多分、分限帳に相当するものには載ってないでショウ!
つまり、記録に残らない人たちは、いつの時代にもいたわけですよね・・・。


で、調べてみて判ったこと。
『成田分限帳』は通称であり、現在図書館などで手にすることのできる資料としては、
天正10年(1582)版と、天正16年(1588)版の2種類があります。

天正10年(1582)版は、写本によってタイトルが微妙に異なり、
『成田家分限帳』は「布施田家本」のタイトル、活字版が『埼玉叢書第2巻』に収録。
『成田氏分限簿』は「龍淵寺本」のタイトル、活字版が『熊谷市史前編』に収録。

天正16年(1588)版は、ちょうど『のぼうの城』の2年前に相当します。
つまり、解散(?)直前の成田家臣団の分限帳として貴重な資料となっている、
『忍成田侍分限帳』は、謄写本として、そのままのタイトルで閲覧が可能です。
こちらは↑1種類のみ。御家来衆だった方のお蔵から発見されたものなので、多分写本です。

そのほかの『成田分限帳』として、
「福田家本」「長谷川家本」「松岡家本」「長久寺本」の4冊が行田市に、
「石井家本」が熊谷市に個人蔵としてあるらしいのですが、とりあえず、こちらの追求は見送りました(^^;)
そしてお約束のように、これらは写本だから、
記載されている内容に「順番の前後」や「抜け」がビミョ~にあるということも判明。

そんなこんなで、星野外記さんは本当に見つかるのか不安でしたが、>名簿記載千人越えてるのよね~
3冊目の市史をひっくり返してみたら、どうにかビンゴ♪
「加勢侍 百二十貫 星野外記 本国武蔵 馬槍達者 熊谷出張 一番手旗頭」と、
ちゃんと載ってましたよ~>こういうのが嬉しいね!(^^)

さて「加勢侍」とは、『のぼうの城』から引用すると
「何かしらの技術を持った者に一代限りの扶持を与え」られていた客人的家臣のことで、
つまり
星野外記さんは、武蔵国出身、馬術と槍使いが達者だった人で、
熊谷に駐在して(出張は「でばり」と読みます)一番手の旗頭(小隊長?)を務めていたことになります。
なので、
別府氏とかのような、成田氏との血縁筋がある臣下だったわけでは、星野氏は、ない。ということも判明。
結論としては、
星野外記さんは、加勢侍として成田忍衆の旗頭を務める中間管理職さんでした。
ちなみに「外記」は「げき」と読むらしいです。この時代の資料で割と目にする名前です。

さて、星野外記さん、
職業が武士ですので、戦があれば当然そこに赴くことになります。

天正10年(1582)は、神流川合戦に忍衆(北条側)として参戦。『深谷記』
神流川合戦とは、本能寺の変の知らせを受け勝機ありとみた北条氏:武蔵(埼玉)と、
対する滝川一益(信長家臣):上野(群馬)の、2日間にわたる神流川を挟んだ戦。結果は北条側の勝利。

天正18年(1590)忍城戦の時には、下忍口を守る軍の中に星野外記の名が・・・えぇっ!下忍口ですか!?
あそこでご活躍なさったのですね! もう、それだけで私はウットリです!
またもや『のぼうの城』の話題↑で恐縮ですが(^^;)
じつは、忍城戦の史実としては、
私がハマッた彼の御方(←『のぼうの城』の設定では下忍口大将)は、
ホントは軍参謀として、遊軍を指揮しながら城内を駆けずり回ってました。
そして実際に下忍口で頑張ったのは、その弟君。・・・なんだか違う意味でウットリ♪

忍城戦については、私の見た資料の中では『行田史譚』が統合的&詳細にまとめてあり、
なおかつ現代文で(←ここのポイントは高い)読みやすいので、
興味のある方は、どうぞ読んで見てください。いや~面白いですよ♪
まぁ、私が勝手に萌えてるだけっていうハナシもありますが・・・(^^;)どうぞ温かい目で~

そして
成田氏の忍城が開城になったあと、武士をやめて農民などになっていった人たちが、
近隣に散らばっていくわけなんですが、
星野外記さんを始めとする『成田分限帳』に載っている何人かの加勢侍は、すでに
天正6年(1578)の時点で、熊谷出張に駐留していたという記録があり、
忍城戦(1590)のあとには更に多くの人達が、熊谷に新しい生活を求めてやってきたと思われます。


と、いうわけで、
またもやY!ブログに「字数多すぎ!」とダメ出しをくらったので、今回は、ここまで。 

江戸時代以降の星野氏については、次回に続きます。

先月から星野さんにどっぷり浸かってしまったために、私、主婦のはずなのに、
12月半ばになっても年末の仕事を まったくなにも していません。

「楽しくやってたら、いつの間にか年末になっていて血の気が引いた。」
というのが、正確なトコロですが~♪ ほほほ


【参考資料】

熊谷市指定文化財一覧』(1977)熊谷市教育委員会/編
熊谷市史 前編』(1961)熊谷市編集委員会/編 
熊谷市史 後編』(1964)熊谷市編集委員会/編
熊谷市銀座史誌』(1975)渡辺和則/著  
深谷記』(成立年未確認)『埼玉叢書第2巻』収録のもので今回は確認しました。
『行田史譚・行田市史別巻』(1976)行田史譚刊行会/発行
『新修忍の行田』(1927)石島儀助/著
のぼうの城 上・下』(2010)和田竜/著(小学館文庫版)つい、ジャケ買いしちゃいました(^^;)
熊谷市郷土文化会誌第24号』(1971)熊谷市郷土文化会/編 
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php