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新川河岸の舟運風景【荒川帰帆】其の二: 熊谷八景③

こんにちは。昨日に引き続き、連日で更新できることが嬉しいです♪
ただ、記事の順番からすると、
昨日の帰帆と今日の記事を入れ替えてUPした方が「八景」という観点からは適切だったと、昨夜、思いました。
あいかわらず、後悔後を絶たず・・・。

まぁ、それは置いといて♪ 


荒川帰帆(あらかわきはん)
帰帆:帰途につく帆船。母港(故国・故郷)に帰る船。

「八景」については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54763151.html


今回は八景のテーマ風景となった、現在の荒川流域の舟運(しゅううん)についてです。

まずは時代背景のおさらい(^^)は、江戸時代初期。

このころは、幕府が物流確保&生産増強を進めていて、
治水工事(河川改修)や街道整備、新田開発が次々に行われていた時代でした。

そんななか、
寛永6年(1629)徳川家光の時代に、伊奈忠治(関東郡代)が、荒川の瀬替えを行います。
具体的には、現在の元荒川筋を流れていた荒川本流を
旧久下橋(←今は撤去された冠水橋)付近で堤防を築いて締め切り、
そこから新たに約4kmの「新川(しんかわ)」を開削して和田吉野川へと繋ぎ、入間川へ通すというものでした。
これが、現在も大筋で「荒川」の流路となっています。

時代によって流路を変えてきた「荒川」ですが、江戸時代初頭の時点で、
久下村と佐谷田村・太井村を南北に区切って境となっていたのが、現在の「元荒川」。つまりこれが当時の本流。
もちろん支流も幾筋かはあったのでしょうが、
江戸時代以前では、
久下村から南に広がる地区(手島村・屈戸村・下久下村・江川村)は、ほぼ地続きとなっていたところを
瀬替えによって上記の村々の位置関係に変化が起きます。

つまり、まずは手島村・屈戸村が、久下から見た川向こう(新川の流れの南側:現大里地区)へと分断され、
さらに、数ある元荒川の支流のうちの一つ「古川」が、そのまま残ったために>現存はしていません。
その古川の南側にあった下久下村・江川村は、新川によってキッパリ南北に分断されます。

新川の南側、大里地区の下久下村・江川村は、一つの集落「江川下久下村」となり
新川の北側は「下久下村」「江川村」として、それぞれ明治初頭まで続いていくことになります。

そして、
荒川帰帆の風景として詠まれたのが「下久下河岸」「江川(新川)河岸」となるわけです。

荒川の瀬替えと新川河岸についての詳細は、
サイト「新川エコミュージアム」の「歴史館」「暮らし館」等に載っていますので、
http://www.shinkawa-muse.net/
そちらを↑ご覧になっていただくのがいい!と、思っていたのですが・・・
最近、エラーになっててサイトに繋がらないんです(TT)

復活することを現在、熱望中です。関係者さま、よろしくお願いします。
追記:10月7日の時点で、サイト復活しています。ありがとうございます(^^)

で、ここでは↓私が目を通した資料で説明していきますね。
さて、
このようにして江戸幕府は、各地の舟運を発展させていくことになりますが、
改修したといっても荒川は、まだまだ蛇行していたから、流れはゆるやかで、
この時代は治水ダムなんてないから、荒れた天候にならなければ、常に水の量も適量という意味で多く、
荒川では「米200駄(400俵)」を積む高瀬舟(川舟)が行き来していたそうです。
ちなみに利根川では、800~900俵を積む高瀬舟もあったそうです。倍の積載量ですね(^^;)

では、具体的に何を運搬していたかというと
江川(新川)河岸をはじめとする平野部の河岸からは、藩の年貢米・農産物・酒など、
また、秩父から筏にしておろした材木のほか炭や薪などが、
江戸の米河岸・青物河岸・材木河岸などに運ばれていき、
そして江戸からの帰りには、
塩や油などの生活用品や小間物、畑の肥料(魚の内臓など:ワタ樽)が積まれてきました。
江戸の町(消費地)と農村(生産地)が共存し、物資が循環していたのですね。まさしくエコです(^^)

明治期に鉄道が開通するまで、
物資・旅客の大量輸送は、もっぱら荒川が利用されていたわけで、
このような舟運による経済活動を一手に引き受けていたのが河岸問屋さんでした。

新川河岸の繁盛ぶりを表す資料として、
明治6年(1873)ちょうど「熊谷県」が成立した年、
行田市にある琴平神社に奉納された「新川早船絵馬」があります。

イメージ 1

鳥居の文字が逆光で見えにくいですね(^^;)夏の日差しのせいです!
この琴平神社、現在は下忍神社地内で、久伊豆神社の右隣↑にいらっしゃいますが、
境内にあった石碑(社史)を見ると、
もともとは、忍城廓の南にある遍照院に金毘羅さまとしてお祀りされていたそうで、
この遍照院に境内があった時、件の絵馬は奉納されています。

イメージ 2

で、こちらが現在の遍照院。紅葉の頃が楽しみなお寺です(^^)
写真左側のスペース(フレーム外ですが・・・)には、お寺の駐車場があります。
昔の地図を参考にしながら考えると、
多分その駐車場のエリアに金毘羅さまがあったのではと予想するのですが、
平日に突撃したこの日、その駐車場が閉まっていて(残念!)門前に路駐するしかなく(^^;)
ハザード点けたまま、走った→撮った→戻った! という有様で、私の中では不完全燃焼~(TT)
オマケに写真も曲がってるし~(^^;)

当然、次の機会を狙ってマス。

んで、
なぜ現在は、このお宮がお寺さんの境内にいないかというと、
たびたび触れてますが、明治初期の政府が出した「神仏分離令」により、
明治19年(1886)金毘羅さまは遍照院境内から南に位置する下忍高畑地区に、琴平神社として、まずは1回目。
そして、
明治42年(1909)現在の久伊豆神社の境内敷地に2回目の引っ越しをなさってます。

この「神仏分離令」は、「寺」と「神社」を分けるのが目的で出されたものなのですが、
明治時代初期の「廃仏毀釈」と呼ばれたムーブメントのキッカケとなっています。
地域によって強弱があるので一概には言えませんが、
各地で、神社が別の場所に移転(合祀)したり、お寺そのものが廃寺となったりと、さまざまな道をたどり
現在に至ります。

ちなみに「琴平」「金毘羅」「金刀比羅」は(大雑把に)イコールとなります。詳しくは検索かけてね♪(^^;)


さて、「新川早船絵馬」にもどります。
この絵馬は、熊谷の新川河岸の様子を描いたもので、
「早船」とは、日を定めて出る「定船」より急ぐ(快速?特急?)舟のことだそうです。
現在この絵馬は行田市指定文化財となり、行田市郷土博物館に保管されています。
こちらは↑行田市HPより「新川早船絵馬」で検索をかけると実物画像が見られます(^^)
http://www.city.gyoda.lg.jp/index.html

じつは、昨年の!(^^;)夏休みの期間中、その行田市郷土博物館で、
この絵馬の特別展が開催されていたので行ってきたのですが、
実物は劣化(顔料の剥脱)がすすみ、年月を経た絵馬として味があるけど・・・いかんせん、
画面に何が描いてあるのかがハッキリせず~(TT)で、
私としては「会えてうれしい♪ けど、ちょっと残念・・・」と思っていたところ、
当時の会場内に、埼玉県立川の博物館が制作した実物大の複製絵馬があり、
絵の細部はもちろん、絵馬を奉納した人たちの名前も確認することができました(^^)v

絵馬の願主は、末野村(寄居町の有料道路出入口あたり)の御方。>こちらも追求したかったが時間切れ~

以下、世話人として
新川地区(下久下村・江川村)や久下村、対岸の大里地区の村々の他、
鴻巣・川島町・深谷・本庄、遠くは群馬・栃木・茨城・千葉の村名が確認でき、
計26人の名が記されています。

複製絵馬の画像をここに載せるのは、イケナイ事だと思われますので、
絵馬展の図録は400円です!興味のある方は行田郷土博物館で購入してくださいね~♪


で、絵馬が奉納された翌年の
明治7年(1874)下久下村と江川村は合併して新川村となります。

繁盛を極めた新川の舟運経済ですが、        
明治16年(1883)上野-熊谷間に鉄道(現在の高崎線)が開通すると、輪送の中心は鉄道にかわり、
新川河岸は次第に衰退していきます。時代の流れですね。

現在、
荒川の久下地区東方の河川敷には、荒川の近代改修によって全村移住となった新川村の跡が残るのみ・・・。

前述したサイト「新川エコミュージアム」によると
近年その地では、地元の方々を中心に、さまざまな活動が繰り広げられているようです。

私も、そのうち息子でも連れて一度散策にでも行こうかナ~♪・・・と思っています(^^)


【参考資料】

『荒川の舟運』(1999)あらかわ学会/編
『まわってめぐってみんなの荒川』(2000)あらかわ学会/発行
『熊谷の地名と旧跡』(1993)熊谷市立図書館/発行
『新編熊谷風土記稿』(1965)日下部朝一郎/著
『熊谷の合併の変遷』(2004)熊谷市立図書館/発行
『新編武蔵風土記稿』
武蔵国郡村誌』
大里郡郷土誌』
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php