荒川の舟運風景(佐谷田編)【荒川帰帆】其の一: 熊谷八景③
荒川帰帆(あらかわきはん)
帰帆:帰途につく帆船。母港(故国・故郷)に帰る船。
帰帆:帰途につく帆船。母港(故国・故郷)に帰る船。
こんにちは、みなさま。
更新が間延びしていて、心苦しい日々でした。
更新が間延びしていて、心苦しい日々でした。
1本記事を書いてみれば「字数オーバー!」と、Y!ブログに却下され(TT)昨日は時間ぎれ・・・
ただいま【荒川帰帆】を分割作業中です。ホホホ~♪
万事がこんな調子ですので、更新も滞るわけですが、今後は少しスタンスを変えていくことにしました。
ただいま【荒川帰帆】を分割作業中です。ホホホ~♪
万事がこんな調子ですので、更新も滞るわけですが、今後は少しスタンスを変えていくことにしました。
全ての労力をブログにつぎ込んでいたわけでは勿論ありませんが、
今まで三味線レポートのみだった期間、結構私なりに、資料を幅広く追いかけておりました。
今まで三味線レポートのみだった期間、結構私なりに、資料を幅広く追いかけておりました。
えぇ、楽しかったです。 というか、楽しいです!
でも「こんなこと(資料読み&フィールドワーク)ばかりやってたら、記事更新は滞ったままだ」と
つくづく思いましたので、多少、未消化だとしても更新をしていこう・・・と方向転換。
でも「こんなこと(資料読み&フィールドワーク)ばかりやってたら、記事更新は滞ったままだ」と
つくづく思いましたので、多少、未消化だとしても更新をしていこう・・・と方向転換。
気付くのが遅すぎっ! と自分突っ込みを入れつつ、
「やりたいことが終わるまで、ブログは止めませ~ん♪」と、ぬけぬけと言い放ち、口上とさせていただきます。
こんな私ですが、よろしくおつきあい下さいませ。
「やりたいことが終わるまで、ブログは止めませ~ん♪」と、ぬけぬけと言い放ち、口上とさせていただきます。
こんな私ですが、よろしくおつきあい下さいませ。
ということで本題、荒川帰帆。
お約束のように、歴史っぽい角度から入りたいと思います。
一般的な基礎情報として、今回とりあえず押さえておいてもらいたいのが、昔の流通事情。
お約束のように、歴史っぽい角度から入りたいと思います。
一般的な基礎情報として、今回とりあえず押さえておいてもらいたいのが、昔の流通事情。
例えば江戸時代、
手紙は飛脚、物資は馬の背に積むか荷車での陸路運搬が基本でした。
そして、ケースによって活用されたのが、海や川の船便。何といっても「大量の物資を早く」運べますものね♪
手紙は飛脚、物資は馬の背に積むか荷車での陸路運搬が基本でした。
そして、ケースによって活用されたのが、海や川の船便。何といっても「大量の物資を早く」運べますものね♪
今回は、そんな昔の流通の名残を残す佐谷田の地名から、まずはアプローチしてみたいと思います。
『ふるさとの地名考と伝承』(1978)には、
「帰帆・・・江戸から来た帆船は、わたたる(ワタ樽:魚の内臓などを樽に詰めたものが、肥料として流通していた)
その他物資をおろして帰ったという土地」という説明があり、
今の元荒川が荒川の本流であったころ(←後述しますが、江戸時代以前になります)
川筋が中山道に隣接していることを加えて考えてみると、
小型なりとも舟運(しゅううん)があり、この土地に帰帆という地名が付いたのだろう。
「帰帆・・・江戸から来た帆船は、わたたる(ワタ樽:魚の内臓などを樽に詰めたものが、肥料として流通していた)
その他物資をおろして帰ったという土地」という説明があり、
今の元荒川が荒川の本流であったころ(←後述しますが、江戸時代以前になります)
川筋が中山道に隣接していることを加えて考えてみると、
小型なりとも舟運(しゅううん)があり、この土地に帰帆という地名が付いたのだろう。
という、私の勝手な推測↑をもとに(^^;)
地図を複数つき合わせてつけた「あたり」に、例のごとくウロウロしに行った時、
運よく地元の方に話を聞くことができまして、
地図を複数つき合わせてつけた「あたり」に、例のごとくウロウロしに行った時、
運よく地元の方に話を聞くことができまして、
とのお話を伺うことができました。>いい御縁を引いた自分に(^^)good job!
上記の場所を具体的に説明すると
熊谷駅南口方面にあるJR高崎線と並行して東西に走る道路を「南大通り」と言うのだそうですが、
その「南大通り」を東に進むと「元荒川通り」に名称が変わります。>地下鉄みたいですね
熊谷駅南口方面にあるJR高崎線と並行して東西に走る道路を「南大通り」と言うのだそうですが、
その「南大通り」を東に進むと「元荒川通り」に名称が変わります。>地下鉄みたいですね
現場(?)には「帰帆橋」もあり、
橋の名前なんて、あまり気にする人はいないかもしれませんが
ちゃんと「帰帆橋」です!
この橋は、元荒川通りを久下方面に延ばすに当たって新規に作られたものですから、
昔あった風景の記録という意味を込めて「帰帆」とつけられたのでしょうね(^^)
昔あった風景の記録という意味を込めて「帰帆」とつけられたのでしょうね(^^)
でも、
この「熊谷八景」が成立したのは、江戸末期~明治期にかけて ということになっていますし、
そのうえで現在の帰帆(久下・佐谷田)付近の元荒川の川幅にあわせた舟を想像すると・・・
「八景」と詠うには、ちょいと規模的に淋しい気がします(^^;)
この「熊谷八景」が成立したのは、江戸末期~明治期にかけて ということになっていますし、
そのうえで現在の帰帆(久下・佐谷田)付近の元荒川の川幅にあわせた舟を想像すると・・・
「八景」と詠うには、ちょいと規模的に淋しい気がします(^^;)
それもそのはず、
熊谷八景の「荒川帰帆」は、現在の荒川の流れを指し、
かつて、というか八景が成立した時代に隆盛を極めた舟運を詠んだ風景だからです。
熊谷八景の「荒川帰帆」は、現在の荒川の流れを指し、
かつて、というか八景が成立した時代に隆盛を極めた舟運を詠んだ風景だからです。
ということで、地名である「佐谷田の帰帆」は、
江戸時代になっても残っていたであろう「元荒川の舟運」に関連した話題でしたが、
次に、江戸時代以降の「荒川の舟運」について、触れてみたいと思います。
江戸時代になっても残っていたであろう「元荒川の舟運」に関連した話題でしたが、
次に、江戸時代以降の「荒川の舟運」について、触れてみたいと思います。
こちらは↑できれば今週中にUPします。がんばるよ・・・(^^;)
【参考資料】