毎日が夏休み in 熊谷

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石原の風景 【石原夕照】 : 熊谷八景②

石原夕照(いしわらせきしょう)
夕照 : 夕映え、夕焼け。夕日に照らされて(川面などが)輝く様子。


「八景」については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54763151.html


さて、いつものように突然ですが、皆さんは「石原」を何と読んでますか?
「いしはら」でしょうか? それとも「いしわら」?

小学校名や秩父線の駅名は 「いしわら」 ですが、所在地名は 「いしはら」 となっているらしく、
17号にある道路表示↓には、英語で 「 Ishihara Sta. 」 と書かれています。

イメージ 1

でも、
地元の固有名詞として 「いしわら」 と読まれるのが基本でショウ。>多分・・・。

私が幼少のみぎりに友人達と交していた、ごく一般的な会話の中でも、
私 :どこ住んでるン?
友人:ん~? いしわら~。>以下、会話続く
だったような、気がします。
ネイティブ石原人の方、情報いただけたらありがたいです(^^)


さて、
石原の歴史は古く、
宮塚古墳のある広瀬古墳群(大麻生)から東にかけて、同時代の坪井・石原古墳群が存在するのですが、
石原のこの地区一帯は、市内でもかなり古墳が密集していた地域となっていました。
江南と合併した現在、その規模&量は比較にならないものになってしまいましたが・・・(^^;)

とにかく、
古墳の概念が確立していなかった昔、この地区は「百塚」「四十八塚」とも呼ばれていたとのこと。
参考までに言及しておきますが、実際の数ではなく↑これは「数が多い」例えです♪

資料を見ると、明治維新前後は塚の数は36あったそうですが、その後発掘され殆どは耕地になり、
残されていた古墳も開発の波に洗われ、現在は数基が、かろうじてその姿を残している状態です。

いくつか写真を撮ってきました。
太平洋セメント社員寮の駐車場には古墳があります♪でもここは私有地なので無断で入らないでね~(^^;)
というわけで、隣接する住宅地の道から↓撮影。

イメージ 2

この写真を撮った場所↑(立ち位置近辺一帯)は昔、
セメント会社の社宅が社員寮と地続きであったのですが、分譲地に分筆したので
古墳も敷地区切り塀↑でカットされてます。

また、ここから東に少し行くと真宗寺手前の住宅地の中に、ぽっかりと雑木林が現れます。
写真では判りにくい↓と思いますが、よく見ると土が盛り上がっていて「塚」の状態になっています。

イメージ 3

こういうのは冬枯れの季節に確認しに行くのが、ホントはベストですね(^^;)

東漸寺の墓地にも2基の古墳が残ってますが、仏さまがお休みしている場所ですから、
ぐるっと確認してきただけで、写真は撮りませんでした(^^)


古い資料には、
蛇塚・ホウセン塚・稲荷社・八幡山(八幡社跡)・松原山・天神塚(天神社跡)
諏訪神社跡、稲荷社跡・アサヒ塚・京蔵塚・神明社塚・天満社塚・大山・小山・・・と
名前が残されていますが、今となってはどれがどれだか見当もつきません。
そもそも名前がつくほどの大きい塚(古墳)は、すべて削られて農地になってしまったみたいで、
現在では、住宅地になっているのが殆どです。

資料を見れば、少しだけですが、かつては存在した古墳の大まかな位置もわかりますので、
興味のある方は、どうぞ探究してみてください♪(^^)


ところで、その石原の地名の起こりには「この時&この理由で」という定説がありません。
資料を紐解くと、
久安2年(1146)荒川の大洪水があり、一面に砂礫が堆積して「石原」となった とか、
宝暦年間(1751~1763)の調書には「荒川に添うて石原出来、石原とす」と記されてたりするそうです。

地形的に見ても、この土地は荒川扇状地の裾野の位置にあるので、
そのまんま、荒川の石原(河原)から名前の由来がきているのは、間違いないようです。


そして「石原氏」を称した人々は
建武2年(1335)中先代の乱北条時行の乱)での戦死者に「石原」の名前が見えているので、
鎌倉時代には、すでに石原氏が居住していた思われます。
また、
天正10年(1582)に編纂された『成田氏家人分限帳』>大雑把に言うと「家来の名簿」には、
忍城主成田氏の家臣として、

「石原式部左衛門 譜代侍 永三十七貫」
「石原六郎左衛門 譜代侍 永三十貫」
「石原源太兵衛 譜代侍 永三十貫」
「石原民部亟  譜代侍 永十八貫」 の記載があります。

「永○○貫」というのは当時の貨幣単位で、成田家から支給された給金。
時代によって貨幣価値は変動しますが、ネットで少し調べたら、
永楽銭1枚=1文、1貫文=1000文 となり、この時代は1文=100円前後なので、
それを当てはめ換算すると、永三十貫は約300万円。

これは、戦のときに自分の家から4人の徒歩侍(かちざむらい)を連れて
主人のもとに駆けつける規模(?)の地侍(領主)なんだそうで、
なので約180万円のお給金だった「石原民部亟」クンは、有事の際は2人ほどの家来を連れていく
お侍さんだったと想像してます。 

まさに「一所懸命」の言葉が、成立していた時代ですよね(^^)

で、
「石原氏館跡」という史跡は現存するのか?という視点で資料を漁ると、
熊谷市史 前編』には、
石原・字宿・小字屋敷 に、御蔵場おくらば・御倉屋敷おくらやしき(郷倉屋敷とも)と呼ばれる場所があり、
そこに石原氏の館があったのではないか、ということになっています。
もっとも、これは確定された話ではないらしく、史跡看板などは現地にはありません。

長い歴史をもつ石原地区なのですが、いかんせん、文献などの資料は
江戸時代より古いものになると残っていないのが一般的なのだけど・・・残念です。

武士の時代では、忍の城主・藩主が何回か変わっているので、どの殿様のときの石原氏なのかも
確認する必要があるでしょうね(^^;)・・・大変そうだな~私、やるのかしら・・・?



さて次に、物産のお話でも♪
石原地区には「大麻生用水」と「成田用水」が流れていますが、
これは元々は、荒川が流れていた跡を用水路に利用しているものです。
字名にも、清水久保・中河原・遠河原・中沢・植木浦などの水に由来する地名が多くあります。

荒川の伏流水(井戸水)も優良で、忍領の酒造用水として毎年、大八車で水を運搬したという井戸が、
坪井地区に残っていて、これが地名「坪井」の由来になってます。
井戸の位置も確認してあるのですが、個人のお宅の敷地内なので、今回、写真はUPしませ~ん(^^)

また、氾濫を繰り返した豊かな地盤の水田から作られる「石原米」は、優良米として珍重され、
江戸へ出荷されたのは勿論、忍藩の献上米にもなっていたとのこと。
そして戦前までは、浅草などで「すし米」といえば「石原米」が多く使われていたそうです。

これは↓古墳を探してウロウロしていたときに見かけた「石原米のCM」♪

イメージ 4

お店の人にお話を伺ったところ、
「石原」となってるけど、厳密にはこの地区限定ではなく、
「ここらへん一帯(熊谷市西部地区)のお米の総称」として扱っているそうです。

もちろん、その石原米も5kg 購入しました♪
今食べてるお米が終わったら、レポートしま~す(^^)



というわけで、
石原の概略(?)を書いてみましたが、「八景」の「石原夕照」。
「荒川夕照」とは、限定していないんですよね。

はじめは、石原地区の荒川河川敷の風景で、
水面や川原石が、夕日に照らされて光っているのかな~とイメージしていたのですが、
もしかしたら、
一面に広がる稲穂(もしくは麦秋)の黄金色の風景かも・・・とも、想像しました。

イメージ 5

これは三尻地区にある熊西高脇から見た、久保島農協方面5月下旬の風景です。
さすがに石原地区では、一面の麦畑は見つけられませんでした(^^;)



「熊谷八景」の成立した、幕末~明治初期、
中山道沿いに商家の並ぶ下石原や、秩父街道の最初の宿である上石原の街道から、
一本奥の道に入れば豊かな農村風景が広がっていて、また、南には荒川の河原があるなど、
石原は、多様な風景をもつ地区だったのでしょう。

もちろん今でも、その面影は残ってますが、さすがに八景成立の時代ほどでは、ないでしょうね。
ちょっと寂しい感じもします・・・(^^;)


【参考資料】

熊谷市史 前編』(1961)熊谷市編集委員会/編
熊谷市史 後編』(1962)熊谷市編集委員会/編
熊谷市郷土文化会誌 第24号』(1969)熊谷市郷土文化会/発行
熊谷市郷土文化会誌 第41号』(1986)熊谷市郷土文化会/発行
『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』(1994)埼玉県教育委員会/発行
『熊谷郷土会誌』復刻版(1984)国会図書/発行
『新編熊谷風土記稿』 (1965)日下部朝一郎/著
『やさしい熊谷の歴史』(1991)中島迪武/著
『熊谷八景』 (1996)芝浦工業大学/著


今回は、石原の歴史をまとめた「私家版資料」に巡り合い、記事をまとめるうえで大変助けられました。
地元の方が作成した資料は、とても興味深く貴重なもので、
「あれは、そういう名称だったの?」「これは、そういうコトだったの!」
と、資料を拝見しに通った数日は、感動の連続でした。
資料の閲覧をお許しくださった関係者の方には、大変お世話になりました。ありがとうございます。

上記「私家版資料」の具体的なタイトルなどは、「私家版」ゆえに
ここ(ネット上)に公開するのは、私の判断で控えさせていただきます。

もし、興味をお持ちの方がいらっしゃいましたら、
私の方に連絡いただければ、出来る限りの対応はいたしますので、
この件に関しての情報公開制限はお許しいただきますよう、ご理解願います。

また、
この「私家版資料」との出会いが糸口となり、地元の方にお話を伺う機会をもつことができ、
さらに別のご紹介で貴重な資料を拝見、お借りすることもできました。

「昔のことを知るのが好きなんです♪」と言ってるだけで、何の肩書ももたない通りすがりの主婦(私)に
暖かいご温情をいただけたのが、とてもうれしかったです。ありがとうございました。



今回の石原の記事については、
かなり時間がかかりましたが 「まとめたい情報は、まとめた(鼻息!)」 という自己満足があります。

しかし私が追求したい「石原」は、まだまだ取り残しがありますので、
それはまた、おいおい記事にしていきたいと思ってます。


最後に、ステキだな~と感じたこと♪

地元、熊谷市立石原小学校の校章の意匠は「稲穂と石」!(^^)
また、
学校のサイトには子供たちが作った「石原カルタ」のコーナーがあります。
公立学校に、私のトコロからリンクを張るのは、憚れるかと思ったので・・・(^^;)
学校名で検索をかけ、トップページ左側のサイドメニュー下段から行けますから、
どうぞご覧になってください(^^)



とにかく、「ディープです。石原。」
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php