毎日が夏休み in 熊谷

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秩父街道スタート!

さて、秩父へ向かう徒歩街道の起点は、
資料によると、国道17号石原1丁目歩道橋の下で左に入る道、とあり、

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写真は「かめの道公園」から国道方面を見た↑ところですが、
歩道橋階段と並行して手前に向かっている道がそれに当たります。

その昔「かめの道公園」は、妻沼線の敷地で土盛りがしてあったので、道は中断されてましたが、
今は平らに整地されたので、公園内にある道しるべを右に見ながら直進すると、

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引き続き、そのまま徒歩で進む↑ことができます(^^)
公園の柵が外してあるところが、今でも活用されてる生活道らしくてGOOD!

そして、しばらく
その細い道を直進すると、前方にJR高崎線の線路が見えてきます。

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徒歩道は線路に沿って右に曲がり↑踏切の手前で自動車道と合流。

自動車道から見た合流地点が、こちら↓になります。

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大抵の人は自動車道を利用しているわけですから、こちらの風景の方がメジャーですよね。
そう、この細~い道が、古い秩父街道(徒歩道)だったんです。

子どもの頃から「この細い道は、ナニか(言われが)あるっ!」と勝手に思いこんでいたところ、
数十年後の(^^;)この年齢になって、そこが古い街道跡だと知ったときのトキメキ(?)は、
何と申しましょうか、
だから止められないのよ~という、後戻りのできない道へ私を誘うわけなんです(^^;)
もちろん、止めてくれる人は・・・いません。

マイブームに溺れる女としては、結構、いいセンいってると自負してます!>自画自賛


さて、話を戻して、
高崎線の踏切を越えると、秩父街道最初の宿場「石原宿」↓となります。

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もちろん、ここ一体の字名は「宿」♪
近世の風景がかろうじて残る、私の好きなエリアです(^^)>昔はもっと、それっぽかったんですよ♪


というわけで、
「宿」については、また次回にでも・・・

今回は、秩父街道のスタート地点について、もう一つ触れておきたいことがあるんです。

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写真は街道の起点、国道に架かる歩道橋の上から写したもの↑で、
その昔は妻沼線高架の足場、現在は地元の資源回収品の一時置き場として使われている場所です。

元々、ここには立場(たてば)がありました。
立場というのは、平たく言うと、
街道の難所に入る手前や、脇道への分岐点などにあった休憩所で、
馬や駕籠の交代、旅人・商人の休息する地点でした。茶屋などもあったかもしれません。


石原の立場は「ぼんぐい」とも呼ばれ、
休息所としての機能の他に、資料によると周辺には、餅屋、鍛冶屋、菓子屋、荷倉屋、馬の金ぐつ屋、
提灯屋などがあり、賑やかな一帯だったことが伺えます。

さて、その「ぼんぐい」ですが、これは「棒杭」の転化した言葉と言われ、
馬を繋ぐ棒が立てられていたから、その名前が付いた。
または「秩父道しるべ」のことを「ぼんぐい」と呼んだ。
とも、言い伝わっているそうです。

『岐蘇路安見絵図』きそじあんけんえず(1756)の中にある熊谷宿の図では、
秩父道の起点に道標が1本立っている様子が描かれているのですが、

前回、記事にした↓石碑「秩父道しるべ」の建立は1766年。
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/57847123.html
『岐蘇路安見絵図』はその10年前の様子ですから、
この時にはすでに「ぼんぐい」つまり木製の道標があったことになります。

少なくとも、約250年前からあった地名も、
今は資料の中に記載された「記録」としての固有名詞となってしまい、寂しい気もしますが、
当時の古い道は、まだ残ってるんですよね。

これって、すごいことだと思います。



【参考資料】

熊谷市郷土文化会誌 第41号』(1986)熊谷市郷土文化会/編
『新編熊谷風土記稿』(1965)日下部朝一郎/著
『わが郷土 熊谷・石原・本石の歴史』  (2007)関口和好/著
『街道と宿場 ~ 市内の文化財をめぐる6』(1988)熊谷市立図書館/発行
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php