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起点:県指定文化財「秩父道しるべ」

埼玉県指定文化財秩父道しるべ」のカテゴリは「旧跡」。
室町時代に始まった秩父巡礼が、江戸時代には年間5万人という最盛期を迎えていた名残(?)なんだそうです。

「かめの道公園」が、妻沼線(←これは通称:正式名称は東武熊谷線)だった時代は、
妻沼線の線路が17号の上を横断していたので、高架にするため土盛りした土手の上に線路がありました。
そんな大昔(?)の頃、
秩父道しるべは、国道17号石原1丁目歩道橋の橋脚下に並んでいたのですが、
日○ショールームの建設にともない、現在は更地に整備された「かめの道公園」内↓に移転しています。

イメージ 1

写真↑左側から、
四角柱の「ちゝぶ道 志まぶへ十一り 石原村」明和3年(1766)建立
丸柱の「秩父觀音順禮道 一ばん四万部寺へ たいらミち十一里」安政5年(1858)建立
秩父青石が美しい「寶登山道 是ヨリ八里十五丁」弘化4年(1847)建立

元々この「秩父道しるべ」の石碑は、中山道から秩父へ向かう道の分岐点に建てられていたものですが、
調べてみたら、
平成16年(2004)に現在の場所(公園内)に移転。
それまでは前述したように、国道に架かる歩道橋の下。
そして、
昭和32年(1957)国道の拡張のために移動するまでは、その歩道橋下から5m北にあったとのこと。
『新編熊谷風土記稿』のP124にある写真が、その「歩道橋から5m北」の時のものだと思うのですが、
如何せん、私もその時はまだ生まれてないので、あくまでも自分の推測です(^^;)
でも更に、
明治22年(1889)当時「新道」と称した現在の旧140号の建設工事をしているので、
その時に、どのような移動があったのかまでは追求ができませんでした~。資料ありませんか?


さて、
石碑の説明をする前に、当時の秩父へ向かう徒歩街道について概略を・・・

中山道を石原で分れた秩父街道は、秩父に向かう途中、寄居で二手に分かれます。
一つは
秩父大道 or 平ら道(たいらみち)」と呼ばれた道筋で、大ざっぱに言うと現在、秩父線が通っているルート。
もう一つは
「山通り or 峠道」と呼ばれ、寄居で荒川を渡し船で渡り、風布から釜伏峠を越え三沢に出て、
黒谷~秩父と行くルート。
どちらも、道のりは大体十里(40Km弱)で1泊2日の行程だったとのことです。

この道を秩父札所めぐりや
秩父三山(当時は「妙見様」が通称だった秩父神社三峯神社宝登山神社)への参詣者
&絹商人たちが通ったわけで
江戸時代、秩父は忍藩領であったので、代官所へ出向する藩の役人も通った道でした。

ちなみに、
秩父巡礼札所一番寺は、秩父市栃谷にある四萬部(しまぶ)寺。
徒歩行程だった当時は、一日平均約8~9里、女性の脚だと5~6里とされていたため、
「峠道」は敬遠され、多少遠回りでも「平ら道」を通り、藤谷渕(長瀞の旧称、きれいな名前でしょ♪)などの
景勝地を愛でながら参詣の道を楽しんだのでしょう。江戸時代の典型的な娯楽ですね(^^)

それにしても、当時の人たちの気持ち↑わかります~。
自動車で攻めたってキツイ あ の 釜伏の山、
どこかにあるはずの(未確認です)徒歩道を踏破するのかと思うと、
私にはちょっと・・・ね(^^;) まぁ、興味はありますが・・・いえ、釜伏踏破は、シマセン!

そういう訳で、
石碑には「志まぶ」とか「たいらミち」とかの補足情報も載ってるわけです。


で、例のごとく何日か通い、石碑の周りをグルグル回りながら文字を追った私ですが、
ふと気になったのが「秩父觀音順禮道」と「寶登山道」の石碑に刻まれた願主・世話人の名前
「血洗島 渋沢宗助」の文字。

これって渋沢栄一の縁者よねぇ・・・と調べてみましたら、
渋沢宗助(1794~1870)の弟が栄一の父親にあたり、栄一からみると宗助は伯父さんになるとのこと。

宗助の家は血洗島のあった八基村の名主を務める名家で、
三代目の宗助を名乗っていた彼は、農業のかたわら固形染料の藍玉商に従事、
蓄えた財で養蚕、特に蚕種の製造と販売を手がけ、蚕糸業の先覚的指導者となります。
さらに海外に向けて蚕種の輸出を行い、外貨獲得に大きな役割を果たしました。

また、文化人としても知られ、
各地の石碑や幟旗などに書を残しているそうです。>私はまだ2点しか確認してませんが(^^;)

そのような経緯を知ると、
甥っ子である栄一が、あの時代に突如飛び出してきたスターだった、というわけではなく、
伯父である宗助の、企業産業人&文化教養人的な素質を栄一が受け継ぎ、
彼が更に開花させたような印象を受けました。こういう視点で見ると歴史って面白いですよね(^^)

また、石碑の願主・世話人には、地元石原の名主さんと思われる方の名前も載っているのですが、
資料をつきあわせると、
秩父街道筋に「多分ここが子孫の方のお宅なんだろうな~」と具体的な推測ができてしまいそうなので、
こちらの方はあまり言及せずにおこうと思います。


以上、
私の調べた限りの「秩父道しるべ」については、大体このぐらいです(^^;)

今回は、資料を漁った割には、なんだか「しっくり」こなくて・・・
先達の方たちが調べて残してくださった情報が、まだ他にあるような気がするのですが、
今回、私にはここまでしか、まとめられませんでした。
他に適切な資料をご存知の方がいらっしゃいましたら、ご教示いただけると嬉しいです。


というわけで、
これからは少しずつ、実際に歩いた街道の様子を紹介していきますね。


【参考資料】

熊谷市郷土文化会誌 第41号』(1986)熊谷市郷土文化会/編
『新編熊谷風土記稿』(1965)日下部朝一郎/著
『熊谷人物事典』  (1982)日下部朝一郎/編著
『わが郷土 熊谷・石原・本石の歴史』  (2007)関口和好/著
『街道と宿場 ~ 市内の文化財をめぐる6』(1988)熊谷市立図書館/発行
『熊谷の道標 ~ 市内の文化財をめぐる7』(1989)熊谷市立図書館/発行
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php