荒川大橋の七変化(怪談ではアリマセン)
そう言われてみれば・・・不思議よねぇ。
ということで、手元の資料をひっくり返してみたら「いきさつ」を発見。
ということで、手元の資料をひっくり返してみたら「いきさつ」を発見。
以下、概略です。
明治15年(1882)熊谷から、松山・川越・小川方面の交通路として、それまで唯一の手段であった
渡し船の不便解消のために、荒川に木製の仮橋が初めて架設(11月)されます。
しかし、「橋を架けた」という記録はあっても、
設計図や予算書などの記録文書が見つかってないらしく、
冬期のみの仮橋、もしくは個人出資の橋(それはそれでスゴイ)だったのかもしれません。
明治15年(1882)熊谷から、松山・川越・小川方面の交通路として、それまで唯一の手段であった
渡し船の不便解消のために、荒川に木製の仮橋が初めて架設(11月)されます。
しかし、「橋を架けた」という記録はあっても、
設計図や予算書などの記録文書が見つかってないらしく、
冬期のみの仮橋、もしくは個人出資の橋(それはそれでスゴイ)だったのかもしれません。
この時代は、熊谷でも明治3年(1870)には人力車の営業が始まり、
徒歩から馬車等に交通手段が移行していくなか、明治16年(1883)に鉄道営業が加わると、
熊谷は小川・妻沼・深谷・行田の各方面への人や物資の道路通行が多くなったうえに、
河川敷も、桑園開発で通行がしにくくなるという状態になってきました。
そこで
明治29年(1896)埼玉県議会において、熊谷での荒川架橋が可決。
約10年後の
明治41年(1908)9月、全長506m・幅約3.6mの木製橋を起工します。
明治42年(1909)4月、竣工、開通式。工事費は3万4000円。当時、関東最長の橋でした。>すごいね!
徒歩から馬車等に交通手段が移行していくなか、明治16年(1883)に鉄道営業が加わると、
熊谷は小川・妻沼・深谷・行田の各方面への人や物資の道路通行が多くなったうえに、
河川敷も、桑園開発で通行がしにくくなるという状態になってきました。
そこで
明治29年(1896)埼玉県議会において、熊谷での荒川架橋が可決。
約10年後の
明治41年(1908)9月、全長506m・幅約3.6mの木製橋を起工します。
明治42年(1909)4月、竣工、開通式。工事費は3万4000円。当時、関東最長の橋でした。>すごいね!
そして、その開通のメドが立った明治42年、
従来、この場所にあった渡し船が、対岸の村岡村の地名から「村岡の渡し」と呼ばれていたので、
橋の名称は「村岡橋」と内定していたことが(熊谷町側に)発覚・・・。
みなさんの予想通り(^^;)↓
熊谷の有志一団が県庁へ押しかけ、「熊谷橋」を主張。
すったもんだの挙げ句>資料に面白く書いてありました♪
結局、知事に命名は一任することになり←そんなこと自体が、当時でも、前代未聞の珍事!
開通式の直前、3月26日付の新聞には「荒川大橋」に決まったとの記事があります。
この↑経過、なんとな~く、笑いを誘いませんか・・・?(^^;)
熊谷の有志一団が県庁へ押しかけ、「熊谷橋」を主張。
すったもんだの挙げ句>資料に面白く書いてありました♪
結局、知事に命名は一任することになり←そんなこと自体が、当時でも、前代未聞の珍事!
開通式の直前、3月26日付の新聞には「荒川大橋」に決まったとの記事があります。
この↑経過、なんとな~く、笑いを誘いませんか・・・?(^^;)
大正3年(1914)8月、荒川洪水で、橋の中央部約130mが、流失。
大正4年(1915)12月、中央の流失部分のみを、コンクリート橋脚・幅約6mの鋼鉄製2連トラス橋とする
修復工事起工。
大正6年(1917)10月、竣工、開通式。工事費は約5万8000円。
開通式には、本町と鎌倉町の山車・屋台も参加したとの記録があります。
大正4年(1915)12月、中央の流失部分のみを、コンクリート橋脚・幅約6mの鋼鉄製2連トラス橋とする
修復工事起工。
大正6年(1917)10月、竣工、開通式。工事費は約5万8000円。
開通式には、本町と鎌倉町の山車・屋台も参加したとの記録があります。
UPして↑あるのが、その頃の2連トラス橋の写真。私個人の手元にある古書の中に載ってました。
大正10年(1921)10月、荒川の洪水でトラス部分の両端にある木造部分が流失。
大正11年(1922)1月、これにより、全橋の改修を決定。全9連トラス橋を計画、起工。
旧トラス橋2連分はそのまま使うことになったのですが、
新しい橋の規格に合わせるため、橋脚の幅を広げ、高さを上げる必要があったり、
夏期増水時は工事を中断したり、関東大震災(1923)にも遭遇しましたが、異常なく、
「期セズシテ耐震試験ヲ実地ニ行フコト得タリ」と、
当時の工事概要にも記録が残っているそうです♪>すごいぞ職人さん!
というようなハードルが、いくつもありましたが、
大正14年(1925)4月、改修工事竣工。全長505m・幅約7m、工事費は約60万円。
当時の埼玉県内では3番目の長さ、またプラットトラス式の橋としては唯一のものでした。
大正11年(1922)1月、これにより、全橋の改修を決定。全9連トラス橋を計画、起工。
旧トラス橋2連分はそのまま使うことになったのですが、
新しい橋の規格に合わせるため、橋脚の幅を広げ、高さを上げる必要があったり、
夏期増水時は工事を中断したり、関東大震災(1923)にも遭遇しましたが、異常なく、
「期セズシテ耐震試験ヲ実地ニ行フコト得タリ」と、
当時の工事概要にも記録が残っているそうです♪>すごいぞ職人さん!
というようなハードルが、いくつもありましたが、
大正14年(1925)4月、改修工事竣工。全長505m・幅約7m、工事費は約60万円。
当時の埼玉県内では3番目の長さ、またプラットトラス式の橋としては唯一のものでした。
それから時代は下がり、このトラス9連の熊谷大橋は、
私の父曰く、
「終戦前夜の熊谷空襲で、少し壊された(穴が空いたのかしら?)」そうなので、その修繕記録もあるかな~と
探してみましたが、それは今回は見つかりませんでした。残念。
私の父曰く、
「終戦前夜の熊谷空襲で、少し壊された(穴が空いたのかしら?)」そうなので、その修繕記録もあるかな~と
探してみましたが、それは今回は見つかりませんでした。残念。
さて資料を見ると、
実は、太平洋戦争の前ぐらいから国策として、荒川治水の河川改修工事が行われていた記録があります。
台風の季節になる度に起こる川の氾濫に備え、川幅を広げ、新堤防を築き始めようとしていたんですね。
実は、太平洋戦争の前ぐらいから国策として、荒川治水の河川改修工事が行われていた記録があります。
台風の季節になる度に起こる川の氾濫に備え、川幅を広げ、新堤防を築き始めようとしていたんですね。
まぁ時勢的に、物資もマンパワーも戦争に駆り出されていた時代ですから、
「そこまで手が回らなかった・・・」のが、正直なトコロでしょうが、
戦争が終わり、河川改修も進んでくると、広くなった川幅に合わせて橋も延ばす必要が出てきました。
「そこまで手が回らなかった・・・」のが、正直なトコロでしょうが、
戦争が終わり、河川改修も進んでくると、広くなった川幅に合わせて橋も延ばす必要が出てきました。
そこで
昭和25年(1950)4月、荒川大橋の南北に橋梁継ぎ足し工事、着工。
両脇はコンクリートの桁橋(ゲルバー桁というそうです)橋の長さは505mから803mへ。
昭和28年(1954)12月、竣工、完成式。工事費は6600万円。←貨幣価値の変動に注目!
昭和25年(1950)4月、荒川大橋の南北に橋梁継ぎ足し工事、着工。
両脇はコンクリートの桁橋(ゲルバー桁というそうです)橋の長さは505mから803mへ。
昭和28年(1954)12月、竣工、完成式。工事費は6600万円。←貨幣価値の変動に注目!
しかし、橋の延長はできたけど、
新堤防と熊谷市街地へ続く旧道路をつなぐために、さらなる土地買収&家屋移転の必要性ができ、
結局、全ての工事が終了し、実際に通行できるようになったのが、
昭和33年(1958)9月、だそうで、
丁度、同じ時期に合わせて、大橋通り(上熊谷~大橋間)の舗装工事も完成しています。
新堤防と熊谷市街地へ続く旧道路をつなぐために、さらなる土地買収&家屋移転の必要性ができ、
結局、全ての工事が終了し、実際に通行できるようになったのが、
昭和33年(1958)9月、だそうで、
丁度、同じ時期に合わせて、大橋通り(上熊谷~大橋間)の舗装工事も完成しています。
写真↑は、その橋の延長時に作った道路の暗渠部分。
トンネルの天井(?)部分には「八坂橋」という名称がついてます。
何気なく通ってましたが、結構古い歴史があるんですね。
さて、昭和30年代。戦後の復興期を経た高度経済成長の時代には、
産業立地の分散にともなう設備投資&道路整備の必要性から、交通車両が大型化し、砂利運搬トラックも激増。
これにより、
荒川大橋の中央、トラス橋旧2連のみ、幅が1m狭いこともあって、橋の渋滞は慢性化し、
荷重に耐えきれなくなった橋脚が破損する、ということが度々起こるようになってきました。
そこで
昭和36年(1961)9月、中央部の2連トラスの架け替え+トラス橋全体を両端のコンクリート橋の高さまで
約1m嵩上げする改修工事、着工。
昭和38年(1963)4月、竣工。
産業立地の分散にともなう設備投資&道路整備の必要性から、交通車両が大型化し、砂利運搬トラックも激増。
これにより、
荒川大橋の中央、トラス橋旧2連のみ、幅が1m狭いこともあって、橋の渋滞は慢性化し、
荷重に耐えきれなくなった橋脚が破損する、ということが度々起こるようになってきました。
そこで
昭和36年(1961)9月、中央部の2連トラスの架け替え+トラス橋全体を両端のコンクリート橋の高さまで
約1m嵩上げする改修工事、着工。
昭和38年(1963)4月、竣工。
さて、これは「交通量の増加」に対応する工事↑をしたわけですが、
実は、この時すでに地元では「橋の複線化」の要望があり、こちらも間もなく実行に移されます。
実は、この時すでに地元では「橋の複線化」の要望があり、こちらも間もなく実行に移されます。
昭和39年(1964)10月、トラス橋の上流に「新橋」を起工。全長約846m・幅約9m。
昭和44年(1969)8月、「新橋」を「下り線(熊谷に向かう)」として竣工。工事費は5億3000万円。
そしてトラス橋を「上り線(吉岡に向かう)」とし、橋の複線化が完了。渋滞も緩和されました。
昭和44年(1969)8月、「新橋」を「下り線(熊谷に向かう)」として竣工。工事費は5億3000万円。
そしてトラス橋を「上り線(吉岡に向かう)」とし、橋の複線化が完了。渋滞も緩和されました。
ところが今度は、トラス橋の建設耐用年数が問題になってきます。
架け替えをしてきたと言っても、元々は大正末期に作った橋だから、かるく40年は越えてますからね~。
というわけで、
今度は、トラス橋と新橋の間に、新たに上り線(吉岡方面行き)の橋を作ることになったのですが、
そうすると、こちらの方が新しい橋となってしまうので「新荒川大橋」とし、
下り線(熊谷方面行き)を「荒川大橋」と変更しています。ややこしや~デスネ(^^;)
架け替えをしてきたと言っても、元々は大正末期に作った橋だから、かるく40年は越えてますからね~。
というわけで、
今度は、トラス橋と新橋の間に、新たに上り線(吉岡方面行き)の橋を作ることになったのですが、
そうすると、こちらの方が新しい橋となってしまうので「新荒川大橋」とし、
下り線(熊谷方面行き)を「荒川大橋」と変更しています。ややこしや~デスネ(^^;)
これで、
現在ある橋の状態になったということですが、
「新橋」の着工の時点(昭和39年)で、この「新荒川大橋」を作るスペースを空けていたということは、
複線化の構想は、この時↑既にあったということですよね。>なんか、感心しました。
現在ある橋の状態になったということですが、
「新橋」の着工の時点(昭和39年)で、この「新荒川大橋」を作るスペースを空けていたということは、
複線化の構想は、この時↑既にあったということですよね。>なんか、感心しました。
さて、役目を終えたトラス橋は、
昭和55年(1980)11月より 翌年3月にかけて、惜しまれつつも撤去されます。
昭和55年(1980)11月より 翌年3月にかけて、惜しまれつつも撤去されます。
この橋の名残であるトラス部分の一部が、大橋南側↓に残されています。
私の遙か彼方の記憶にも、このトラス橋はあるのですが、
こんなピカピカでなく、もっとこう・・・排ガスか何かで、真っ黒になっていたような(^^;)
竣工当初は、こんな感じだったのかしら? ご存知の方、いらっしゃいませんか?
この荒川大橋トラス広場には「荒川大橋のあゆみ」という説明版があり、
基本的に橋のサイズや工事費の金額は、ここ↑にあった数値を四捨五入して書き出してます。
資料によってビミョ~な、ばらつき(誤差?)があるので、一般公開している記録に頼ってみました♪
昔の橋の写真も掲示してあるので、興味のある方は是非、見に行ってみて下さい(^^)
基本的に橋のサイズや工事費の金額は、ここ↑にあった数値を四捨五入して書き出してます。
資料によってビミョ~な、ばらつき(誤差?)があるので、一般公開している記録に頼ってみました♪
昔の橋の写真も掲示してあるので、興味のある方は是非、見に行ってみて下さい(^^)
というわけで、この大橋は合計7回、架け替え等の工事を経験しているんですね。
橋1本作るのに10億以上のお金が、かかるんですもの、修理しながら使っていかなくちゃね(^^;)
【参考資料】