空襲をくぐり抜けた建物 ~本町にて
昭和20年8月15日の「終戦の詔」を聞く前夜、熊谷は空襲に遭いました。
その復興にともない
「中山道を拡張する」という事業が、国策として行われ、
昭和24年(1949)着工、27年(1952)巾員拡張完了、29年(1954)広巾部分の舗装完了
が、その概略となっています。
「中山道を拡張する」という事業が、国策として行われ、
昭和24年(1949)着工、27年(1952)巾員拡張完了、29年(1954)広巾部分の舗装完了
が、その概略となっています。
埼玉県内(特に県南)の中山道を参考にしてもらうとイメージしやすいと思いますが、
熊谷市内の元々の中山道の幅は6~11m。これを25~28mまで広げたわけですから、
当時としては相当大規模な拡張工事だったと思います。
熊谷市内の元々の中山道の幅は6~11m。これを25~28mまで広げたわけですから、
当時としては相当大規模な拡張工事だったと思います。
現在でも、県内でこれだけ幅のある中山道をもつのは、戦災復興都市となった熊谷だけです。
そう考えると、
現在の熊谷を歩いたときに確認できる、「空襲を受けた遺物」は数えるほどしかありませんし、
古い宿場町として発展してきた面影(変則的に曲がった細い路地など)は、殆ど残らず、
代わりに、真っ直ぐで広い道が碁盤状に通され、
類焼を防ぐためのグリーンベルトが東西南北に走る街に変貌していること自体が、
<熊谷の戦争の記録>なのかな、とも感じます。
そう考えると、
現在の熊谷を歩いたときに確認できる、「空襲を受けた遺物」は数えるほどしかありませんし、
古い宿場町として発展してきた面影(変則的に曲がった細い路地など)は、殆ど残らず、
代わりに、真っ直ぐで広い道が碁盤状に通され、
類焼を防ぐためのグリーンベルトが東西南北に走る街に変貌していること自体が、
<熊谷の戦争の記録>なのかな、とも感じます。
さて、
現在の本町付近は
「中山道拡張のために道路の北側にあった建物が下がる」という形態がとられているのですが、
当時の市街地の約74%が焼失という事態のなかでも、
焼け残った家屋は散在していたので、
撤去される建物あり、曳去移転する建物ありと様々でした。
現在の本町付近は
「中山道拡張のために道路の北側にあった建物が下がる」という形態がとられているのですが、
当時の市街地の約74%が焼失という事態のなかでも、
焼け残った家屋は散在していたので、
撤去される建物あり、曳去移転する建物ありと様々でした。
そして写真↑は、その戦災で焼け残った建物。
屋根の棟(むね:一番上の水平な部分)の装飾も美しいでしょ?
青海波(せいがいは)模様だと思うのですが、写真じゃ確認は難しいかなぁ(^^;)
そして軒下↑を見ると「土蔵造り」というより「出桁造り」のように見えるのですが・・・
なんとなく「うだつ」っぽく作ってあるあたりから、やっぱり土蔵つくりでいいのかな?
詳しい方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。
それにしても、土蔵造りの家を曳去って・・・
「持ち上げて → コロを敷いて → 後方に下げた」ということだけど、すごいことですよね(^^;)
「持ち上げて → コロを敷いて → 後方に下げた」ということだけど、すごいことですよね(^^;)
先日、運よく、このお宅にお住まいの方にお話を伺うことができたのですが、
戦災前からのご商売(食堂)をずっと続けてこられたけど、現在は閉めてしまわれたとのこと。
食堂の前は「お米屋さん」をなさっていたお宅だったそうです。>それは知りませんでした!
戦災前からのご商売(食堂)をずっと続けてこられたけど、現在は閉めてしまわれたとのこと。
食堂の前は「お米屋さん」をなさっていたお宅だったそうです。>それは知りませんでした!
本町も、国道に面した通りから一本内側に入ると、歴史を感じる木造住宅がまだまだ残っています。
詳しくは判りませんが、
多分、戦災を越えて現在に至っている建物も、相当含まれてるのではないでしょうか?
詳しくは判りませんが、
多分、戦災を越えて現在に至っている建物も、相当含まれてるのではないでしょうか?
そんな風に想像しながら、路地を歩くのはとても楽しいです(^^)
【参考資料】