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熊谷の桜堤 ~ 明治・大正期 【桜堤晴嵐】其の二: 熊谷八景①

桜堤晴嵐(おうていせいらん)
晴嵐:晴れた日に山に立つ気。晴れた日の霞。

「八景」については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54763151.html

江戸時代までの熊谷桜と堤については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54775703.html



明治~大正時代の熊谷桜堤には、
竹井澹如と林有章という2人の人物が、大きく関わっています。

竹井澹如(たけい たんじょ)
天保10年(1839)群馬県邑楽郡南牧村羽沢出身。幼名(通称)は万平。俳人としての雅号は、幽谷。

慶応元年(1865)万平は、熊谷宿本陣竹井家に養子として迎えられ、26歳で14代目当主となります。
まあ言うなれば、当時の町の旦那衆の一人ですね。
彼は、時の政財界人、大隈重信板垣退助後藤象二郎陸奥宗光渋沢栄一、という
(教科書に載ってる)人たちと親交があり、
中央政界からも出府を進められたようですが、本人は郷里開拓に専念。
地方政治に寄与し、地方実力者の養成に努め、終始一貫、熊谷(県北)の公共事業に貢献しています。

以下、おもな事業を挙げておきます。>当時の彼の年齢も書き出してみました。参考にしてね(^^)

・石上寺脇、玉の池を中心に庭園とし別邸を建て、星渓園を作る。明治5年(1872)33歳
・殖産興業を目的として荒川河原に60haの桑園を開拓、無償譲渡。明治6年(1873)34歳
陸奥宗光を通じ、熊谷県庁の招致。明治6年(1873)34歳
・教員養成施設の暢発学校を高城神社境内に設置。明治7年(1874)35歳
・県内最初の私立中等学校、せきてい学社(←漢字が出ませんでした)を設置。明治10年(1877)38歳
・第一回埼玉県議会の議長に就任。明治12年(1879)40歳
安政元年(1850)の火災以来、そのままであった熊谷寺伽藍の再建に協力。明治16年(1883)44歳~
  明治36年(1903)起工、同40年(1907)上棟、大正4年(1915)に入仏式挙行。
上武鉄道(現:秩父鉄道)敷設に際し援助。
  明治27年(1894)55歳、請願 → 明治34年(1901)62歳、熊谷-寄居間が開業
・育英奨学の「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」寄宿舎の東京都心建設事業に協力。明治37年(1904)65歳
大正元年(1912)没。享年74歳。

あらためて私自身の年齢と比べて↑みると・・・己の日常をちょっとだけ、反省(^^;)テヘ♪


さて、竹井澹如と熊谷堤に話を移します。

明治元年(1868)夏、荒川洪水によって熊谷の堤塘数ヶ所が決壊します。
ときは戊辰戦争のまっただ中。
春には報恩寺(←元々は熊谷郵便局と市役所通りの場所にありました)に官軍の本営が置かれ、
忍藩との会談がもたれるなど、世相も大きく揺れている中での水害は、農作物に大きな被害を呼ぶに至り、
長ずるところ賊徒暴行が起こるなど、熊谷も維新の混乱時となっていました。

そんななか、熊谷を洪水の被害から守るために、
明治2年(1869)竹井澹如(30歳)は私財を投じ、決壊した「長沼の堤塘」のすぐ西側に、
熊谷堤から荒川に向かって、新たな突堤を築きます。

熊谷の人たちが感謝して、この堤を後に「万平出し」「万平堤」と呼ぶようになったのですが、
これによって、対岸の吉見側では洪水被害が増大し、昭和初期まで続いたそうです。>シリアス・・・(TT)


現在、万平公園(曙町)となっているのは、この「万平出し」の一部、約150mとなります。
公園の堤の上には、「竹井澹如翁碑」(熊谷市指定文化財)があります。

イメージ 1

これは、昭和7年(1932)に制作されたままだったのを、昭和35年(1960)この場所に設置したもの。
ロングで撮らずに、上部の肖像部分だけを写してみました。>だって下半分の碑文が難解なんですもの(^^;)


そしてここに、先述した
林有章(はやし ありあきら)通称、勘兵衛。主な雅号:幽嶂(ゆうしょう)
が、加わります。
彼は、竹井澹如より20歳年下の安政6年(1859)熊谷生まれ。天正年間(1573~)から続く旧家の出身です。

以下、林有章の「桜関係外」の略歴を挙げておきます。>年齢もネ(^^)

・せきてい学社(竹井澹如らが設立)に入学。明治10年(1877)18歳>結婚もこの年だそうです♪
・町会議員に当選、同議会議長となる。明治12年(1879)20歳
・大蔵省に登用。明治17年(1884)25歳
葛飾・北埼玉・児玉の各郡長を歴任。明治21~34年(1888~1901)29歳~42歳
・病を機に退官、以降、町会議員などを歴任し町政に尽くす。明治37年~(1904~)45歳~
・昭和20年(1945)没。享年86歳。


さて、
維新後は荒廃し、ゴミ捨場(もどき)と化していた熊谷堤ですが、>今で言う不法投棄・・・?
明治16年(1883)7月28日、上野~熊谷間を鉄道が開通、営業を開始します。
そしてこれが、熊谷堤が桜堤へと変貌する転機となります。

「お好き」な方も多いでしょうから・・・オマケとして(^^)
汽車の運行内容は、午前午後に各1本(1日2往復)。上野~熊谷間、合計7駅を2時間30分で走行。
機関車の名前は「善光号」。
大成の鉄道博物館で↑会えます♪私は「弁慶号」しか撮ってませんでした~(^^;)残念
客車は、特上等合造車1両と、畳敷きが好評な50人乗り下等3両。
上野~熊谷間の運賃は、特等1円71銭、上等1円14銭、下等57銭だったそうです。


桜堤に戻します。
鉄道営業開始を7月に控えた、明治16年(1883)1月、
竹井澹如(44歳)林有章(24歳)高木弥太郎(弁護士)の3名は「四方山話の末」←林有章:談>ホントです(^^;)
堤に桜樹を植えること決め、同年3月、東京巣鴨染井の毛利邸から
吉野桜380本、彼岸桜50本、名物桜20本、計450本の苗木を購入、移植したのが始まりです。

因みに、苗を東京から運ぶ際には、すでに敷いてある線路とトロッコ5両を使い、
無料で桜を運んでもらったそうで・・・やるわね。当時、買い付けに行った林有章クン24歳!

そして、樹高3.3~4.5m、目通り20cmの450本の桜樹は、
樹勢が弱まる恐れがあるので、夜を徹して4m間隔に互植されたそうです。

ここから数年かけて、桜堤は次第に世に謳歌されるようになっていくのですが、
それらのエピソードは『名勝熊谷桜』林有章/著に、詳しく載っています。
閉架図書あつかいの禁帯出本↑ですが、個人的には「ものすごく面白かった!」ので、
興味のある方は、熊谷市立図書館2階のカウンターで請求してみてください。>古書だから大切にね(^^)


このころの熊谷堤は、
石原松厳寺付近 ~ 石上寺西側 ~(当時はまだありませんが→)上熊谷駅を堤上に置きながら線路を越えて
久下付近まで続く、全長約3kmの堤防となっていました。
現在の元荒川通り(南大通り?)の道路が、ほぼ熊谷堤に相当する ら し い のですが、
まだ断片的に地元の方のお話を聞くにとどまり、図面での確認ができていません(TT)>資料ありませんか?

そして桜並木は、熊谷の人たちに愛され大切にされたのかというと、
・・・そういうわけでもなく(^^;)
花を折る、枝を切る等の行為が横行し、植樹から20年以上が経った頃には、
桜の本数も当初の450本から、180本に減っていました。

選挙制度を始め、経済も農地も民主的な運営に到達する前の時代ですから、
「公共心」という感覚が民意として意識されにくかったのは、仕方のなかったことかもしれません。>私見です。


というわけで、
明治39年(1906)現在の観光協会の前身といえる「熊谷保勝会」が設立されます。
会長には竹井澹如(67歳)、副会長に林有章(47歳)が就任。

会の目的は当然、桜樹の保護。
新たに190本を石原方面の堤に植えつけし、明治40年(1907)43年(1910)と、補植をかさねた結果、
桜樹は906本となり「一目千本」と称される桜堤となりました。>最盛期は本当に1000本を越えていたそうです。

これを記念した「熊谷堤栽櫻碑」(大正3年建立)が、現在は万平公園の堤下にあります。

イメージ 2


そのような経緯から、明治末から昭和初期にかけて、
熊谷堤は、上野駅から花見客のための臨時列車が出るなど、名実ともに桜の名所となります。

かの若山牧水(当時36歳)は、
大正9年(1920)長瀞秩父に向かう途上の熊谷で
「乗り換えの汽車を待つとて 出でて見つ 熊谷土堤のつぼみ櫻を」 
「雨ぐもり重き蕾の咲くとして あからみなびく土手の桜は」
「枝のさき われより低く垂れさがり 老木桜のつぼみ繁きかも」の歌を詠んでいます。


大正11年(1922)には「熊谷保勝会」を「熊谷町史蹟名勝保存会」林有章(63歳)が会頭
と改め、経営を町に移して委員制とし、桜堤を公共のものとして位置づける一方、

大正12年(1923)埼玉県から「史蹟名勝記念物」の指定。
昭和2年(1927)内務省から「史跡名勝天然記念物」の指定。
と、鎌倉町3丁目踏切より佐谷田との境までが、法律によって保護されるにいたりました。

これを記念した「名勝熊谷堤」の碑(昭和3年建立)は現在、万平公園の堤上にあります。

イメージ 3

また、これを記念して林有章(69歳)の自費出版した本が、前述した『名勝熊谷桜』となります。


そんな名声を得ていた桜堤でしたが、
大正14年(1925)町の南半分を焼失するという「熊谷大火」によって、
堤の桜樹も痛手を被り、徐々に衰えていきます。

また時勢も、世界恐慌ファシズムの台頭と厳しい時代へ傾倒していくなか、
昭和18年(1943)「熊谷町史蹟名勝保存会」は解散。
そのまま、桜堤は荒れるに任せるままの状態で、戦後へと移っていくことになります。

歴史を写すような、桜堤の変遷だと、私は印象をもちましたが、みなさんは如何でしょうか?


さて、
「桜堤=春」なのですから、季節に沿った記事を「熊谷八景」の画題に合わせてUPできればカンペキ♪
なのでしょうけど、それは最初から「ムリ!」とわかっていますので(^^;)

現在の桜堤の話は、来年の桜の季節に合わせてお届けしたいと思います。


その間に、他の八景の記事をUPしてるはずですから。きっとね・・・(TT)



【参考資料】

熊谷市郷土文化会誌 第13号』 (1967)熊谷市郷土文化会/発行
熊谷市郷土文化会誌 第48号』 (1993)熊谷市郷土文化会/発行
『私たちの郷土 熊谷の歴史』  (2002)熊谷市立図書館/編
熊谷市史 前編』(1961)熊谷市編集委員会/編
熊谷市史 後編』(1962)熊谷市編集委員会/編
『熊谷人物事典』(1982)日下部朝一郎/編著
『名勝熊谷桜』(1928)林有章/著
『熊谷大観』 (1917)下田憲一郎/著
『埼玉県大里郡郷土誌』(1994)下田江東/編
『新編熊谷風土記稿』 (1965)日下部朝一郎/著
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php