熊谷の桜堤 ~ 明治・大正期 【桜堤晴嵐】其の二: 熊谷八景①
慶応元年(1865)万平は、熊谷宿本陣竹井家に養子として迎えられ、26歳で14代目当主となります。
まあ言うなれば、当時の町の旦那衆の一人ですね。
彼は、時の政財界人、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、陸奥宗光、渋沢栄一、という
(教科書に載ってる)人たちと親交があり、
中央政界からも出府を進められたようですが、本人は郷里開拓に専念。
地方政治に寄与し、地方実力者の養成に努め、終始一貫、熊谷(県北)の公共事業に貢献しています。
まあ言うなれば、当時の町の旦那衆の一人ですね。
彼は、時の政財界人、大隈重信、板垣退助、後藤象二郎、陸奥宗光、渋沢栄一、という
(教科書に載ってる)人たちと親交があり、
中央政界からも出府を進められたようですが、本人は郷里開拓に専念。
地方政治に寄与し、地方実力者の養成に努め、終始一貫、熊谷(県北)の公共事業に貢献しています。
以下、おもな事業を挙げておきます。>当時の彼の年齢も書き出してみました。参考にしてね(^^)
・石上寺脇、玉の池を中心に庭園とし別邸を建て、星渓園を作る。明治5年(1872)33歳
・殖産興業を目的として荒川河原に60haの桑園を開拓、無償譲渡。明治6年(1873)34歳
・陸奥宗光を通じ、熊谷県庁の招致。明治6年(1873)34歳
・教員養成施設の暢発学校を高城神社境内に設置。明治7年(1874)35歳
・県内最初の私立中等学校、せきてい学社(←漢字が出ませんでした)を設置。明治10年(1877)38歳
・第一回埼玉県議会の議長に就任。明治12年(1879)40歳
・安政元年(1850)の火災以来、そのままであった熊谷寺伽藍の再建に協力。明治16年(1883)44歳~
明治36年(1903)起工、同40年(1907)上棟、大正4年(1915)に入仏式挙行。
・上武鉄道(現:秩父鉄道)敷設に際し援助。
明治27年(1894)55歳、請願 → 明治34年(1901)62歳、熊谷-寄居間が開業
・育英奨学の「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」寄宿舎の東京都心建設事業に協力。明治37年(1904)65歳
・大正元年(1912)没。享年74歳。
・殖産興業を目的として荒川河原に60haの桑園を開拓、無償譲渡。明治6年(1873)34歳
・陸奥宗光を通じ、熊谷県庁の招致。明治6年(1873)34歳
・教員養成施設の暢発学校を高城神社境内に設置。明治7年(1874)35歳
・県内最初の私立中等学校、せきてい学社(←漢字が出ませんでした)を設置。明治10年(1877)38歳
・第一回埼玉県議会の議長に就任。明治12年(1879)40歳
・安政元年(1850)の火災以来、そのままであった熊谷寺伽藍の再建に協力。明治16年(1883)44歳~
明治36年(1903)起工、同40年(1907)上棟、大正4年(1915)に入仏式挙行。
・上武鉄道(現:秩父鉄道)敷設に際し援助。
明治27年(1894)55歳、請願 → 明治34年(1901)62歳、熊谷-寄居間が開業
・育英奨学の「埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)」寄宿舎の東京都心建設事業に協力。明治37年(1904)65歳
・大正元年(1912)没。享年74歳。
あらためて私自身の年齢と比べて↑みると・・・己の日常をちょっとだけ、反省(^^;)テヘ♪
さて、竹井澹如と熊谷堤に話を移します。
明治元年(1868)夏、荒川洪水によって熊谷の堤塘数ヶ所が決壊します。
ときは戊辰戦争のまっただ中。
春には報恩寺(←元々は熊谷郵便局と市役所通りの場所にありました)に官軍の本営が置かれ、
忍藩との会談がもたれるなど、世相も大きく揺れている中での水害は、農作物に大きな被害を呼ぶに至り、
長ずるところ賊徒暴行が起こるなど、熊谷も維新の混乱時となっていました。
ときは戊辰戦争のまっただ中。
春には報恩寺(←元々は熊谷郵便局と市役所通りの場所にありました)に官軍の本営が置かれ、
忍藩との会談がもたれるなど、世相も大きく揺れている中での水害は、農作物に大きな被害を呼ぶに至り、
長ずるところ賊徒暴行が起こるなど、熊谷も維新の混乱時となっていました。
熊谷の人たちが感謝して、この堤を後に「万平出し」「万平堤」と呼ぶようになったのですが、
これによって、対岸の吉見側では洪水被害が増大し、昭和初期まで続いたそうです。>シリアス・・・(TT)
これによって、対岸の吉見側では洪水被害が増大し、昭和初期まで続いたそうです。>シリアス・・・(TT)
これは、昭和7年(1932)に制作されたままだったのを、昭和35年(1960)この場所に設置したもの。
ロングで撮らずに、上部の肖像部分だけを写してみました。>だって下半分の碑文が難解なんですもの(^^;)
そしてここに、先述した
林有章(はやし ありあきら)通称、勘兵衛。主な雅号:幽嶂(ゆうしょう)
が、加わります。
彼は、竹井澹如より20歳年下の安政6年(1859)熊谷生まれ。天正年間(1573~)から続く旧家の出身です。
林有章(はやし ありあきら)通称、勘兵衛。主な雅号:幽嶂(ゆうしょう)
が、加わります。
彼は、竹井澹如より20歳年下の安政6年(1859)熊谷生まれ。天正年間(1573~)から続く旧家の出身です。
以下、林有章の「桜関係外」の略歴を挙げておきます。>年齢もネ(^^)
・せきてい学社(竹井澹如らが設立)に入学。明治10年(1877)18歳>結婚もこの年だそうです♪
・町会議員に当選、同議会議長となる。明治12年(1879)20歳
・大蔵省に登用。明治17年(1884)25歳
・葛飾・北埼玉・児玉の各郡長を歴任。明治21~34年(1888~1901)29歳~42歳
・病を機に退官、以降、町会議員などを歴任し町政に尽くす。明治37年~(1904~)45歳~
・昭和20年(1945)没。享年86歳。
・町会議員に当選、同議会議長となる。明治12年(1879)20歳
・大蔵省に登用。明治17年(1884)25歳
・葛飾・北埼玉・児玉の各郡長を歴任。明治21~34年(1888~1901)29歳~42歳
・病を機に退官、以降、町会議員などを歴任し町政に尽くす。明治37年~(1904~)45歳~
・昭和20年(1945)没。享年86歳。
さて、
維新後は荒廃し、ゴミ捨場(もどき)と化していた熊谷堤ですが、>今で言う不法投棄・・・?
明治16年(1883)7月28日、上野~熊谷間を鉄道が開通、営業を開始します。
そしてこれが、熊谷堤が桜堤へと変貌する転機となります。
維新後は荒廃し、ゴミ捨場(もどき)と化していた熊谷堤ですが、>今で言う不法投棄・・・?
明治16年(1883)7月28日、上野~熊谷間を鉄道が開通、営業を開始します。
そしてこれが、熊谷堤が桜堤へと変貌する転機となります。
「お好き」な方も多いでしょうから・・・オマケとして(^^)
汽車の運行内容は、午前午後に各1本(1日2往復)。上野~熊谷間、合計7駅を2時間30分で走行。
機関車の名前は「善光号」。
大成の鉄道博物館で↑会えます♪私は「弁慶号」しか撮ってませんでした~(^^;)残念
客車は、特上等合造車1両と、畳敷きが好評な50人乗り下等3両。
上野~熊谷間の運賃は、特等1円71銭、上等1円14銭、下等57銭だったそうです。
汽車の運行内容は、午前午後に各1本(1日2往復)。上野~熊谷間、合計7駅を2時間30分で走行。
機関車の名前は「善光号」。
大成の鉄道博物館で↑会えます♪私は「弁慶号」しか撮ってませんでした~(^^;)残念
客車は、特上等合造車1両と、畳敷きが好評な50人乗り下等3両。
上野~熊谷間の運賃は、特等1円71銭、上等1円14銭、下等57銭だったそうです。
桜堤に戻します。
鉄道営業開始を7月に控えた、明治16年(1883)1月、
竹井澹如(44歳)林有章(24歳)高木弥太郎(弁護士)の3名は「四方山話の末」←林有章:談>ホントです(^^;)
堤に桜樹を植えること決め、同年3月、東京巣鴨染井の毛利邸から
吉野桜380本、彼岸桜50本、名物桜20本、計450本の苗木を購入、移植したのが始まりです。
鉄道営業開始を7月に控えた、明治16年(1883)1月、
竹井澹如(44歳)林有章(24歳)高木弥太郎(弁護士)の3名は「四方山話の末」←林有章:談>ホントです(^^;)
堤に桜樹を植えること決め、同年3月、東京巣鴨染井の毛利邸から
吉野桜380本、彼岸桜50本、名物桜20本、計450本の苗木を購入、移植したのが始まりです。
そして、樹高3.3~4.5m、目通り20cmの450本の桜樹は、
樹勢が弱まる恐れがあるので、夜を徹して4m間隔に互植されたそうです。
樹勢が弱まる恐れがあるので、夜を徹して4m間隔に互植されたそうです。
ここから数年かけて、桜堤は次第に世に謳歌されるようになっていくのですが、
それらのエピソードは『名勝熊谷桜』林有章/著に、詳しく載っています。
閉架図書あつかいの禁帯出本↑ですが、個人的には「ものすごく面白かった!」ので、
興味のある方は、熊谷市立図書館2階のカウンターで請求してみてください。>古書だから大切にね(^^)
それらのエピソードは『名勝熊谷桜』林有章/著に、詳しく載っています。
閉架図書あつかいの禁帯出本↑ですが、個人的には「ものすごく面白かった!」ので、
興味のある方は、熊谷市立図書館2階のカウンターで請求してみてください。>古書だから大切にね(^^)
このころの熊谷堤は、
石原松厳寺付近 ~ 石上寺西側 ~(当時はまだありませんが→)上熊谷駅を堤上に置きながら線路を越えて
久下付近まで続く、全長約3kmの堤防となっていました。
現在の元荒川通り(南大通り?)の道路が、ほぼ熊谷堤に相当する ら し い のですが、
まだ断片的に地元の方のお話を聞くにとどまり、図面での確認ができていません(TT)>資料ありませんか?
石原松厳寺付近 ~ 石上寺西側 ~(当時はまだありませんが→)上熊谷駅を堤上に置きながら線路を越えて
久下付近まで続く、全長約3kmの堤防となっていました。
現在の元荒川通り(南大通り?)の道路が、ほぼ熊谷堤に相当する ら し い のですが、
まだ断片的に地元の方のお話を聞くにとどまり、図面での確認ができていません(TT)>資料ありませんか?
そして桜並木は、熊谷の人たちに愛され大切にされたのかというと、
・・・そういうわけでもなく(^^;)
花を折る、枝を切る等の行為が横行し、植樹から20年以上が経った頃には、
桜の本数も当初の450本から、180本に減っていました。
・・・そういうわけでもなく(^^;)
花を折る、枝を切る等の行為が横行し、植樹から20年以上が経った頃には、
桜の本数も当初の450本から、180本に減っていました。
会の目的は当然、桜樹の保護。
新たに190本を石原方面の堤に植えつけし、明治40年(1907)43年(1910)と、補植をかさねた結果、
桜樹は906本となり「一目千本」と称される桜堤となりました。>最盛期は本当に1000本を越えていたそうです。
新たに190本を石原方面の堤に植えつけし、明治40年(1907)43年(1910)と、補植をかさねた結果、
桜樹は906本となり「一目千本」と称される桜堤となりました。>最盛期は本当に1000本を越えていたそうです。
これを記念した「熊谷堤栽櫻碑」(大正3年建立)が、現在は万平公園の堤下にあります。
かの若山牧水(当時36歳)は、
大正9年(1920)長瀞秩父に向かう途上の熊谷で
「乗り換えの汽車を待つとて 出でて見つ 熊谷土堤のつぼみ櫻を」
「雨ぐもり重き蕾の咲くとして あからみなびく土手の桜は」
「枝のさき われより低く垂れさがり 老木桜のつぼみ繁きかも」の歌を詠んでいます。
大正9年(1920)長瀞秩父に向かう途上の熊谷で
「乗り換えの汽車を待つとて 出でて見つ 熊谷土堤のつぼみ櫻を」
「雨ぐもり重き蕾の咲くとして あからみなびく土手の桜は」
「枝のさき われより低く垂れさがり 老木桜のつぼみ繁きかも」の歌を詠んでいます。
大正12年(1923)埼玉県から「史蹟名勝記念物」の指定。
昭和2年(1927)内務省から「史跡名勝天然記念物」の指定。
と、鎌倉町3丁目踏切より佐谷田との境までが、法律によって保護されるにいたりました。
昭和2年(1927)内務省から「史跡名勝天然記念物」の指定。
と、鎌倉町3丁目踏切より佐谷田との境までが、法律によって保護されるにいたりました。
これを記念した「名勝熊谷堤」の碑(昭和3年建立)は現在、万平公園の堤上にあります。
また時勢も、世界恐慌・ファシズムの台頭と厳しい時代へ傾倒していくなか、
昭和18年(1943)「熊谷町史蹟名勝保存会」は解散。
そのまま、桜堤は荒れるに任せるままの状態で、戦後へと移っていくことになります。
昭和18年(1943)「熊谷町史蹟名勝保存会」は解散。
そのまま、桜堤は荒れるに任せるままの状態で、戦後へと移っていくことになります。
歴史を写すような、桜堤の変遷だと、私は印象をもちましたが、みなさんは如何でしょうか?
さて、
「桜堤=春」なのですから、季節に沿った記事を「熊谷八景」の画題に合わせてUPできればカンペキ♪
なのでしょうけど、それは最初から「ムリ!」とわかっていますので(^^;)
「桜堤=春」なのですから、季節に沿った記事を「熊谷八景」の画題に合わせてUPできればカンペキ♪
なのでしょうけど、それは最初から「ムリ!」とわかっていますので(^^;)
現在の桜堤の話は、来年の桜の季節に合わせてお届けしたいと思います。
その間に、他の八景の記事をUPしてるはずですから。きっとね・・・(TT)
【参考資料】
『熊谷市郷土文化会誌 第13号』 (1967)熊谷市郷土文化会/発行
『熊谷市郷土文化会誌 第48号』 (1993)熊谷市郷土文化会/発行
『私たちの郷土 熊谷の歴史』 (2002)熊谷市立図書館/編
『熊谷市史 前編』(1961)熊谷市史編集委員会/編
『熊谷市史 後編』(1962)熊谷市史編集委員会/編
『熊谷人物事典』(1982)日下部朝一郎/編著
『名勝熊谷桜』(1928)林有章/著
『熊谷大観』 (1917)下田憲一郎/著
『埼玉県大里郡郷土誌』(1994)下田江東/編
『新編熊谷風土記稿』 (1965)日下部朝一郎/著
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php
『熊谷市郷土文化会誌 第48号』 (1993)熊谷市郷土文化会/発行
『私たちの郷土 熊谷の歴史』 (2002)熊谷市立図書館/編
『熊谷市史 前編』(1961)熊谷市史編集委員会/編
『熊谷市史 後編』(1962)熊谷市史編集委員会/編
『熊谷人物事典』(1982)日下部朝一郎/編著
『名勝熊谷桜』(1928)林有章/著
『熊谷大観』 (1917)下田憲一郎/著
『埼玉県大里郡郷土誌』(1994)下田江東/編
『新編熊谷風土記稿』 (1965)日下部朝一郎/著
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php