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北条堤と熊谷桜 【桜堤晴嵐】其の一: 熊谷八景①

桜堤晴嵐(おうていせいらん)
晴嵐:晴れた日に山に立つ気。晴れた日の霞。

「八景」については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54763151.html


まずは、基礎知識(^^)
熊谷の桜は江戸時代から有名でしたが、往事の桜堤と現在ある桜堤は、別のものです。
平たく言うと、熊谷の桜堤は、新旧の2つがあり、
旧桜堤の名残として残っているのは、曙町の万平公園内の桜堤と、
鎌倉町の石上寺下というか、堤の上に石上寺があるという方が正確、でしょうか?

さて、
昔の荒川堤は、現在のように1本にキッチリと繋がっていたわけではなく、
その場所(集落)を守ることを目的として、単発で築かれていました。

熊谷を守ることを目的とした初めての築堤、とされているのは、
天正2年(1574)鉢形城主・北条氏邦が、石原松厳寺(1597年開基)の東から、
鎌倉町石上寺(寛永年間1624~44年開基)の南にかけて約200mの堤を築いたのがそれにあたり、
「北条堤」と呼ばれます。
また、天正年間に作られたので「天正堤」の別称もあったとのこと。

そして、
北条堤が忍藩の管理下におかれた江戸時代、堤は順次、東(下流)の久下方向に延長していきました。
全長約2km、これを総称して「熊谷堤」と呼んでいます。

北条堤は始め1m程の低い堤でしたが、後に盛り土を繰り返したらしく、
『新編武蔵風土記』(1830年上呈)には、高さが「1丈1尺(3.4m)」とあります。
もちろん、場所によって高低差はあったと思いますが、
現在、万平公園に残っている旧熊谷堤の高さが約3mなので、
これを大体の大きさの目安として、イメージしてもいいのではないかと思います。


ところで、この北条堤、
今は市街地の中にあり、荒川からは遠く離れてますが、当時の流路はどうだったのでしょうか?

答え: 現在の流路と、かなり、違います。
鎌倉時代から、石上寺が作られた寛永年間(1624~44)の頃までの荒川の流路は、
大麻生 ~ 熊谷石原間 ~ 箱田 ~ 佐谷田 ~ 久下太井間を流れていたのが本流で、
この時代にできた新たな支流として、大麻生 ~ 熊谷の南側 ~ 佐谷田で、元荒川をたどるものがありました。
これら2本の流れが、久下小学校の北で合流していたそうです。

つまり熊谷の集落は、周囲を荒川に囲まれた広域中州のような状態で、
この界隈は、氾濫しやすい場所、まさに名前通りの「荒川」だったということです。

参考までに、
徳川家康の時代に農業用水確保のために作った堰が、
「奈良用水」「玉井用水」「大麻生用水」「成田用水」とありますが、元は全て荒川の支流跡とのこと。
たしかにそれらの流域には、河原明戸、小島、新島、原島など、荒川による地形を表す地名が見受けられます。

とにかく、荒川・利根川は、この地域をあるイミ支配した、鍵となる要因でありました。



さて、熊谷堤の概略から、話題を桜に移します。

江戸時代、熊谷の桜は「熊谷桜クマガイザクラ」と呼ばれていました。
これは固有名詞で、ある種の桜のことを指します。>くれぐれも、ソメイヨシノには あ ら ず です。

「早咲き・小輪・八重咲き・小木」が、熊谷桜の特徴なんだそうで、厳密には2種類あるとのこと。
開花期が早いことから、直実さんの一ノ谷先陣の故事にちなんで名付けられたそうです。
ちなみに中央公園にある「兼六園熊谷桜」は、別の種なんだそうで・・・。>ややこしや~(^^;)

資料に残っている「熊谷桜」としては、江戸時代の文献に以下の2点があります。

『熊谷古絵図』(1752)という熊谷市指定文化財には、
石上寺の境内に「熊谷桜」の文字と、満開の1本の桜の木の絵が描かれています。
市立図書館に図録があるのですが、コピーをここにUPするのは(文化財なので)憚れるかと思い、
遠慮いたしました・・・(^^;)

また、『忍名所図会』(1825)佐竹香斉/著(行田市指定文化財)には、「星河山石上寺」の項で
「熊谷櫻 当寺門内に数樹あり 花の頃は一時の美麗也」という記述があり、
こちらはネットで確認↑をすることができます。
興味のある方は、
「埼玉県立図書館 忍名所図絵 増補」で検索、該当ページで「増補その2」をクリックしてみて下さい(^^)


さて、
石上寺の境内にいつ、熊谷桜が植えられたのか年代は不明です。が、
一説では、
寛永6年(1629)伊奈忠治が荒川の瀬替えを行った頃>←これについては、また後日(^^;)
同じくこの時代に開基となっている石上寺に、熊谷桜を植栽したのが起源ではないか
とも、言われていますが、その記録はまだ発見されてないそうです。

因みに石上寺は「川原石の上に建てたお寺」の意味で、
堤を守ることを祈念してお堂を作ったのが始まりだとか。
現在の正式名称は「星河山千手院石上寺」。ロマンティックで柔らかな響きの名前だと思います♪ステキ(^^)


実は、石上寺の熊谷桜と忍藩主の間にはご縁があり、
桜の季節には、境内で家臣と共に観桜の宴をしばしば催し、
「大雅会」と称して歌人墨客が沢山集まったと伝えられています。
ピークは文政天保(1818~44)の頃で、明治維新直前まで行われていたそうです。

この時の老臣達や来会者が寄せた色紙・短冊などは表装され、お寺の宝物となっていましたが、
昭和20年、終戦前夜の空襲により伽藍もろとも焼失してしまったとのこと。

熊谷の歴史を少しさかのぼると、命と文物を無差別に傷つけ失う戦争(と人災と天災)に
必ずぶつかるのが、個人的にやりきれない思いがします。
そして、未だにその連鎖は断ち切れてなく、日々飛び込むニュースにも心が痛みます。合掌。


さて、石上寺と忍藩主の関係、そもそもの発端は、
石田三成忍城攻め(1590)の際、戦火で焼かれた熊谷の高城神社から始まります。

忍藩主(1639~71)阿部忠秋は敬神の念あつく、藩主になって以降、
高城神社が古社(延喜式内社)であることを知り、社殿再興を計ります。
そして次の藩主(1671~77)阿部正能が、1671年に現在の拝殿および本殿を上棟させています。

その高城神社の別当寺にあたるのが石上寺で、その石上寺は阿部忠秋のころには開基されていますので、
その繋がりから、忍藩主とは近しい関係があったということでしょう。
特に、忍藩主(1704~48)阿部正喬は、領内巡視の折は必ず高城神社と石上寺を訪れていたそうです。


このように江戸時代以降、熊谷石上寺の熊谷桜は名所として知られるようになり、
また、家康による学問奨励を受けて、熊谷でも私塾が盛んになったために、
多くの文人墨客が招待され、または旅の途中で熊谷を訪れています。

江戸時代に熊谷を往来した人を(ほんの一部ですが)挙げておきます。
徳川家康(将軍)・小林一茶俳人)・蜀山人狂歌師)・伊能忠敬(測量家)
渡辺崋山(画人)・寺門静軒(学者)他
十返舎一九も『東海道中膝栗毛』にて、弥次さん喜多さんを熊谷に寄らせています。

文化5年(1808)三陀羅法師(狂歌師)が石上寺での雅会にて
「我も其 阿弥陀笠きて 咲く花に うしろは見せぬ 熊谷さくら」と詠んだ碑が、現在も石上寺境内にあります。
でも、現在お寺が工事中のために写真を↑撮ることができませんでした。
またの機会に追記したいと思います。


そして
安政6年(1859)荒川洪水のため、熊谷堤・久下堤が決壊、熊谷宿大水。石上寺の熊谷桜は流失。
時の忍藩主(1841~63)松平忠国は、熊谷堤の修復を行い熊谷桜を補植しようとしましたが、
その苗がなく(熊谷桜は元々希少種だったのかな?)代わりに山桜数株を移植。
その後、この桜を思い「桜咲く ことも伝なし 都鳥」の句を石上寺に寄せています。

補足ですが、
江戸時代では、寺社や大名(旗本)が自分の敷地内で桜を育てていました。
新種を作り出すのは勿論、希少種を保存するという役目を担ってきたわけです。>今でいうランみたいな感じ?
そんな中、
江戸にあった武家屋敷は、幕末動乱の中で荒廃していったため、
消えていった桜もきっと多かったことと思います。


というわけで、総括(?)

江戸時代における熊谷の桜というのは主に「石上寺の熊谷桜クマガイザクラ」を指しますが、
いかんせん、クマガイザクラは、小木。
忍のお殿様が花見を楽しんだのは、高木のヤマザクラか、もしかしたらソメイヨシノかもしれません。

そして熊谷桜は少なくとも、安政6年の洪水で一度は流失しているため、
「これが石上寺にあった熊谷桜です。」という原木が存在しません。残念ながら・・・

そんな“幻の桜”となっていたところを、地元の有志の方々のご尽力により、
1993年、茨城県にあった熊谷桜1本を譲り受け「親木」として同年11月、中央公園に植樹されたのを皮切りに、
以来、大切に増やされて、今では熊谷のあちこちに植樹されています。

ザッと調べた限りですが、現在、熊谷桜があるのは、
「中央公園」「熊谷寺」「熊谷駅南口(ロータリー内)」「かめの道(の何処かは未確認です)」
熊谷スポーツ文化公園(投擲場東)」「西小の北側にある公園(名前が未確認です)」

熊谷桜の開花はソメイヨシノより一足早いので、今度の春に見に行ってみるのは如何でしょうか?(^^)

正直、こんな記事を書いてる私が、
熊谷桜を「これがそうか~!」と意識して見たことがありませんです・・・。


さて、熊谷桜本家(?)石上寺は本堂建築のため、工事中です。
先日、お寺にお話を伺いに行ったら、北条堤を熊谷桜の堤として復活させる予定があるとのこと。
工事の完了は2年後(2010年)の秋。
それに合わせて、熊谷桜のことについての本をつくる旨のお話も伺いました。楽しみです(^^)


さいごに、
現在、熊谷市内にある「熊谷桜」は、
科学的には 「石上寺にあった熊谷桜と同じであるとは断言できない」 かもしれませんが、

熊谷の有志の方が茨城県で再発見してくださった熊谷桜を、
熊谷に住む私たちが愛すれば、
それが、石上寺にあった熊谷桜となるのだと、<文化>とはそういうものだと、私は思います。



今回、写真が一枚もありませんでしたね(^^;)文字ばっかりでゴメンナサイ・・・

明治以降の旧桜堤については、来週中には、どうにかUPできると思います!



【参考資料】

熊谷市郷土文化会誌 第48号』 (1993)熊谷市郷土文化会/発行
『私たちの郷土 熊谷の歴史』  (2002)熊谷市立図書館/編
『まわってめぐってみんなの荒川』(2000)野村圭佑/編著
『新編熊谷風土記稿』 (1965)日下部朝一郎/著
『埼玉県大里郡郷土誌』(1994)下田江東/編
『新編武蔵風土記』  (1996)雄山閣/出版
『熊谷人物事典』(1982)日下部朝一郎/編著
『熊谷八景』 (1996)芝浦工業大学/著
『名勝熊谷桜』(1928)林有章/著
『大日本地名辞書 第6巻』(1970)吉田東伍/著
『新編埼玉県史 通史編3』(1988)埼玉県/編


石上寺のご住職さまには、お忙しい中の時間をいただき、貴重なお話を伺うことができました。
ありがとうございました。