「旧小原村」道路元標
今回は、「旧小原村道路元標を探せ!顛末記」をお送りします。
結論から言うと、
旧小原村の道路元標は見つかりませんでした~(TT)
旧小原村の道路元標は見つかりませんでした~(TT)
昭和35年(1960)御正村と小原村が合併し、江南町(当時は村でした)になったわけですが、
「農協=村役場跡地=きっと道路元標もそこにあるはず」
という方程式が、今回も通用するだろうと、まずは小原農協へ行って色々聞いてみました。
が、
いまひとつ、確証&手がかりが掴めませんでした。
「農協=村役場跡地=きっと道路元標もそこにあるはず」
という方程式が、今回も通用するだろうと、まずは小原農協へ行って色々聞いてみました。
が、
いまひとつ、確証&手がかりが掴めませんでした。
40年以上昔の話ですものねぇ(^^;)
その当時のことを農協職員の方が詳しく知らないのも無理はないかと・・・
お仕事中に失礼しました。
その当時のことを農協職員の方が詳しく知らないのも無理はないかと・・・
お仕事中に失礼しました。
と言うわけで、矛先を変え、
(いつものテで)周辺をお散歩中の人生の大先輩に、お話を伺いました。
(いつものテで)周辺をお散歩中の人生の大先輩に、お話を伺いました。
すると
「小原農協=旧小原村役場跡」は、間違いないとのこと(^^)vヤッタネ♪
「小原農協=旧小原村役場跡」は、間違いないとのこと(^^)vヤッタネ♪
ということは、
道路元標があるのなら、この近辺ということになるのだけど・・・・さて、どうする?
と車に戻り、積んでる地図を眺めてたら、
江南南小学校(旧小原小学校)の東側に「重殿稲荷」の文字を発見。
道路元標があるのなら、この近辺ということになるのだけど・・・・さて、どうする?
と車に戻り、積んでる地図を眺めてたら、
江南南小学校(旧小原小学校)の東側に「重殿稲荷」の文字を発見。
「個人名のお稲荷さんだ。なにかある!」ということで行ってみたところ、
道路元標はなかったけど、別のものがありました。
道路元標はなかったけど、別のものがありました。
この重殿稲荷のある須賀広(すがひろ)地区一帯は、
江戸時代初期、徳川秀忠・家光・家綱に仕えた旗本である稲垣重太(しげもと)の領地となります。
ちなみに当時の地名は、男衾郡須賀廣村でした。
そして実際に代官として派遣され、ここに陣屋を構えたのが家臣の田村重次(しげつぐ)。
江戸時代初期、徳川秀忠・家光・家綱に仕えた旗本である稲垣重太(しげもと)の領地となります。
ちなみに当時の地名は、男衾郡須賀廣村でした。
そして実際に代官として派遣され、ここに陣屋を構えたのが家臣の田村重次(しげつぐ)。
文献に残る記録としては、
寛永10年(1633)の須賀広陣屋3000石からとなりますが、
正保元年(1644)には6000石。
万治元年(1658)稲垣重太が64歳で没。息子の重定が当時10歳で遺領を継ぎます。
しかし重定は
元禄11年(1698)50歳の時、近江山上藩の初代藩主となるので、
それ以前には領地替えがあったと思われ、それにともない陣屋も廃止。
寛永10年(1633)の須賀広陣屋3000石からとなりますが、
正保元年(1644)には6000石。
万治元年(1658)稲垣重太が64歳で没。息子の重定が当時10歳で遺領を継ぎます。
しかし重定は
元禄11年(1698)50歳の時、近江山上藩の初代藩主となるので、
それ以前には領地替えがあったと思われ、それにともない陣屋も廃止。
以降は、
陣屋近隣にある旧家が「お代官」と呼ばれ、ここ一帯の名主として治めてきました。
現在でも、重殿稲荷を管理なさっているそうです。>現存するお宅↑なので、詳細は省きます。
陣屋近隣にある旧家が「お代官」と呼ばれ、ここ一帯の名主として治めてきました。
現在でも、重殿稲荷を管理なさっているそうです。>現存するお宅↑なので、詳細は省きます。
そのような経緯から陣屋跡の正式名は、稲垣家の家臣である代官、田村重次から「田村陣屋跡」。
別称としては、大字名から「須賀広陣屋」とも呼ばれています。
別称としては、大字名から「須賀広陣屋」とも呼ばれています。
さて、ここで確認をひとつ。
上のジュードン沼ですが、漢字で書くと重殿沼。
そう、「重殿」と書いて「ジュードン」と読むんです。
上のジュードン沼ですが、漢字で書くと重殿沼。
そう、「重殿」と書いて「ジュードン」と読むんです。
「ジュードン(ズードン)」は聞いたことあったのですが、漢字でこう書くとは知りませんでした!
ジュードンジュードンジュードン・・・
ジュードンジュードンジュードン・・・
代官として派遣された田村「重次」に加えて、上司(?)である旗本の稲垣「重太」。
その「重」と殿様の「との→どん」から「ジュードン」が来たものと思われます。>多分ね(^^;)
その「重」と殿様の「との→どん」から「ジュードン」が来たものと思われます。>多分ね(^^;)
しかし、
重殿稲荷は「じゅうどの」と読む(呼ぶ)のだそうで
「ジュードン沼」に、「じゅうどの稲荷」に、「じゅうどのふれあい広場」
そして稲荷から北側にある一帯の畑にあたる地名(小字名)は、重殿「じゅうどの」
重殿稲荷は「じゅうどの」と読む(呼ぶ)のだそうで
「ジュードン沼」に、「じゅうどの稲荷」に、「じゅうどのふれあい広場」
そして稲荷から北側にある一帯の畑にあたる地名(小字名)は、重殿「じゅうどの」
私は始め「しげどの」って勝手に読んでました。←キッパリ間違ってますね。地名って奥深いです~(^^;)
しかし、その重殿稲荷。
『新編武蔵風土記稿』(1830年上呈)には、重殿稲荷の東にある「釈迦寺持の稲荷社」となっています。
「重殿稲荷」は↑載ってないんですね。
でも、須賀廣村の稲荷社で記録と共に現存するのは、この「重殿稲荷」だけです。
『新編武蔵風土記稿』(1830年上呈)には、重殿稲荷の東にある「釈迦寺持の稲荷社」となっています。
「重殿稲荷」は↑載ってないんですね。
でも、須賀廣村の稲荷社で記録と共に現存するのは、この「重殿稲荷」だけです。
田村陣屋から「重殿」の地名が生まれたのは間違いないと思いますが、
いつから「釈迦寺持の稲荷社」から「重殿稲荷」と呼ぶようになったかは、不明とされています。
いつから「釈迦寺持の稲荷社」から「重殿稲荷」と呼ぶようになったかは、不明とされています。
余談ですが、
この重殿稲荷は(お約束のように)田村陣屋跡の東北角に位置するので、鬼門除けと考えられます。
ジュードン沼と繋がっている稲荷周辺の水路もきっと、陣屋の水堀跡だと思います。
この重殿稲荷は(お約束のように)田村陣屋跡の東北角に位置するので、鬼門除けと考えられます。
ジュードン沼と繋がっている稲荷周辺の水路もきっと、陣屋の水堀跡だと思います。
また陣屋跡と江南南小学校の間に道が一本、南北に通ってるのですが、
その脇は自然地形として、学校側に向かって一段低くなっています。多分ここが、陣屋跡の西端でしょう。
その脇は自然地形として、学校側に向かって一段低くなっています。多分ここが、陣屋跡の西端でしょう。
陣屋跡の中心部には個人のお宅が数件、建っていますが、
その敷地の西北角の屋敷林の中に、
かなり高く(2m位?)盛り上げられた土塁がひっそりと残っています。
多分、櫓台だったのではないかと思いますが、
もしかしたら、こちらのお宅の残土置き場かもしれません・・・>確認はしませんでした(^^;)
その敷地の西北角の屋敷林の中に、
かなり高く(2m位?)盛り上げられた土塁がひっそりと残っています。
多分、櫓台だったのではないかと思いますが、
もしかしたら、こちらのお宅の残土置き場かもしれません・・・>確認はしませんでした(^^;)
そして最後に肝心の、道路元標。
所在位置は「須賀広字前新田104」ということになっています。
ジュードン沼が「須賀広字陣屋前103」なので、小字名を地図上で確認していくと、
重殿稲荷の東側が「旧小原村」道路元標のあったであろう場所となります。
所在位置は「須賀広字前新田104」ということになっています。
ジュードン沼が「須賀広字陣屋前103」なので、小字名を地図上で確認していくと、
重殿稲荷の東側が「旧小原村」道路元標のあったであろう場所となります。
でも今は畑となっていて、とってものんびりした風景が広がっているだけなのでした。
そこを何日もウロウロと通った私は、ハッキリ言って「アヤシイ人」でした。
通報されなくてよかったです(^^;)ホッ
通報されなくてよかったです(^^;)ホッ
【参考資料】