毎日が夏休み in 熊谷

Yahoo!ブログより移転しました

陸橋脇のお地蔵様

イメージ 1

「子どもの頃から気になっていたけど、じっくり見ることのなかった」お地蔵様。
上熊谷駅の脇を通る陸橋を北に向かって下ったところ、すぐ左側に↑あります。

建立は昭和32年(1957)。
当時はまだ此処に、北条堤(旧荒川堤・桜堤)が残っていたそうです。>北条堤については、またの機会に(^^;)
お堂自体もかなり古くなっているので、もしかしたら、
説明の板碑も含めてすべてが50年の年月を経たものかもしれません。

イメージ 2

・・・の割には、
お地蔵様の顔立ち(?)は、ハッキリ↑してますね(^^;)
仏像は、半眼のお顔が主流の中、なかなか個性的なお顔なのではないかと思います。

というか、インパクト、大!


さて記事のために、何回か堂宇に通ったのですが、
ある日、運よく、
お堂をお世話している近所の方にお話を伺うことができました。

お地蔵様を建立したのは、石原の新井龍吉さんという方だそうで、
残念ながら、龍吉さんには後継の方がいなかったので、
お堂の近くに住んでいる故、お世話をなさっているとのこと。

何処かのお寺に属している地蔵尊ということではなく、
檀家さんがあるわけでもないので、このままでは
いずれ堂宇も崩れてしまうのではないかと心配なされてました。


なにもかも「熊谷市で管理しろ」と主張するつもりは、私にはありませんが、
道ばたにひっそりと残る昔からのものを
このように、ずっと大事に伝えてくださっている、町の方々の地道な活動こそが<文化>であって、
大切にしていくべきだと思います。

イメージ 3

ところで
堂宇の前にある木製の板碑ですが、如何せん建立昭和32年
劣化が著しく、正直、読めません↑・・・(TT)

いずれもっと、読めなくなってしまうと思うので、
私が現地で判読した限りですが、記録として、文章を転記しておきます。

・・・ 以下、板碑文です ・・・
舌代
顧るに昭和20年8月14日夜半より翌15日に亘り、
吾が熊谷全市は火の海と化し、言語に絶する混乱状態となりたり。
折しも星川の流れに身を投じて避難せる人々は、
川の両側に並ぶ家屋の焼落ちる火と火の間にて、
哀れにも狂い死をなしたる者多大なり
又は無惨に大火傷を受け、薬石効無く遂に尊い一命を失った者
驚く勿れ全市に於て其の数實に200有余名なり。
その御気の毒な方々の最後を思いやり、
情厚き全市有志の皆名様と供に
茲に平和地蔵尊並火伏地蔵と唱えて建立せしものなり。
斯くのごとき死亡者の中には、身寄り頼り無く
不倖此の上も無き霊魂の為に何卒一片の香花を手向け下さる様、御願い申し上げます。
昭和32年1月 熊谷市民有志
堂守 (屋号と○代目らしい記述があります) 新井龍吉
・・・ 以上、転記終了 ・・・


お地蔵様の台座には「厄除子育地蔵尊」とあるのですが、
この碑文を見ると「平和地蔵尊」「火伏地蔵」とあるのがわかります。

こんなふうに、
「へぇ~、そうだったんだぁ~」
という瞬間が、私は、好きなんですよね♪


【参考資料】
郷土史(ふるさと)点描・熊谷』(1987)熊谷市立図書館/編