毎日が夏休み in 熊谷

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三本の【駒形神社】 権太栗毛のこと~その3

『新編武蔵風土記稿』大里郡三本(みつもと)村の項に

駒形明神社
社伝に昔権太が熊谷直実に興へし栗毛の駿馬、一ノ谷の軍果て黒谷に廻り、
古郷へ帰れよとて乗捨しとき、其馬遠路を越此所に来り死せしによりて、崇め祀る所なり 
(旧漢字は直してあります。送りがな等はそのまま)

とあり、
これが直実愛馬・権太栗毛の墓所についての唯一の文献であり、
書類上(?)「権太栗毛は、旧江南町の駒形神社に祀られている」ということになってます。

その駒形神社なのですが、実は、現在の三本地区内(地図上)には見あたらないんです。

さて、何処に行った?

と、地図上で視線を泳がすと、三本地区の南方に駒形公園という場所があり、
神社は此処にあったのではないかと思うのですが、実際にそこに行ってみても
親水公園とターゲットゴルフ場があるのみで↓神社の痕跡が見つからないんです。

イメージ 1

でも、図書館の『江南町史』を調べたら・・・・ありました♪(^^)


明治40年(1907)政府の合祀政策に従い、
三本村の鎮守である、渡唐(ととう)神社境内に移動したとのこと。  
実際に行ってみると、ちゃんと社↓が建っていました。よかった~♪

イメージ 6

じつは、これら権太栗毛の記事群を書くまでに至ったのは、
この「どこにいったの?駒形神社!」が、私のスタート地点だったのです。

『江南町史』に関連記事を見つけ、実際に渡唐神社に行って駒形明神社↓を確認したときは
すっごく!うれしかったです(^^)

イメージ 2

「うれし」が過ぎて、まさか3連作になるとは・・・・何がどうなるか、わかりませんね(^^;)



この渡唐神社は、少彦名命スクナヒコナノミコト)が祭神。
海を越えて(中国から)来た神などと、諸説ありますが、
一般的には知恵の神であり、特に医療・医薬の神として祀られることが多いそうです。

また、別の資料では、
渡唐神社は菅原道真が祭神とされています。

でも、菅公(菅原道真)は遣唐使を廃止した政治家・・・。渡唐(ととう)はしてないでショウ!
と、ツッコミたくなりますが、

漢詩等の才覚が抜きんでていた菅公を敬う意味で、
「菅公は天満天神となって渡唐し修行した」という伝説があるそうで
これが背景となった神社であるとのこと。



駒形神社に戻します。

駒形公園=駒形神社跡の具体的な場所は、押切橋を武体から南下し直進、
丘陵地帯(千代地区)手前の坂を権現坂というのですが、その左側のすぐ下に駒形神社があったそうです。
そしてお約束のように、ここ一帯の小字名は「駒形」となります。
もちろん「権現坂」も、この下にあった駒形明神社に由来するものです。

「権現」や「明神」は、平たく言うと神の称号で、仏教系・神道系で異なるのですが、
神仏習合であった日本では、「神は仏の信者を守護する」ということで
明治の廃仏毀釈まで、混在しながら信仰の対象となっていました。


さて、『江南町史』によると、
神社跡には井戸が残っているのみで、他の痕跡は何もないとのこと。
ここまでくると、あとは地元の人だのみっ(^^;)

駒形公園に突撃した私に、畑仕事をなさってた方が、
「オレが若い頃は、神社跡の草刈りをしてたんだけど、今はトンと行ってないからな~」
と、坂下の小さな林を教えてくださいました。

ここがそうだったのか~と、
神社の元の位置がわかる写真をロングで撮ってみたのが、これ↓
イメージ 3

これで井戸が確認できると嬉しいな~
と近づいてみたところ、
その元境内だった場所は、なんと公園の動植物保全のため立ち入り禁止に・・・残念!

ならば、隣の畑の畦道から近づいてみよう♪
と、進路変更。

写真では、どこまで伝えることができるかわかりませんが、
境内があったと思われる場所は、畑より一段高くなっていて、
明らかに人工物と思われる痕跡、川原石で側面を葺いてある↓のが確認できました。

イメージ 4

こうなってくると欲が出てきます(^^;)
立ち入ることは不可能でも、高い位置(丘陵地)からなら、何か見えるかもしれない!
と、すでにケモノ道と化した遊歩道を掻き分けながら上り、
斜面の途中から境内跡地を見下ろすと↓何やら人工物が・・・

イメージ 5

これは、耕作に不向きな石を積み上げてできた「石塚」と思われます。
神社跡としては何も残されなかった為にフリースペースとなったので、社が移転した後に積まれた石でしょうね。
この位置からは、3カ所の石塚が確認できました。

でも、熊笹に阻まれて視界は悪く、井戸は確認できず。

う~ん・・・
「自然保護」は大切ですが、ここも熊谷市になったことだし、
看板1枚でいいから、神社跡地を何とかアピールできないものでしょうかねぇ

ね?(^^)熊谷市教育委員会さん♪



さて、
駒形神社は、直実の愛馬を祀る由緒をもつ古社として、江戸幕府から領地(11石)を認められ、
家光以下9代の将軍からの「駒形神社朱印状」(市の文化財)が残っているのだそうです。
地元の方の話によると、駒形神社跡の南側、権現坂を上った左手にも
駒形公園の土地が続いているのですが、こちらがその幕府からの御領地だったとのこと。

三本村の鎮守である渡唐神社の方が、社格としては駒形神社より上となるのですが、
領地&別当寺(天台宗)をもっていた時点で、駒形神社の方がリッチな神社だった事が想像できます。

また、社跡に向かう小径(権現坂下をロングで撮るときに私が立ってた道)は、
駒形屋敷(社殿・拝殿?or 社務所?)と呼ばれる建物に向かう道だったそうで>地元の方:談
少なくとも、渡唐神社より規模の大きな神社だったみたいです。

それなのに、では、なぜ渡唐神社が村の鎮守たりえたのか?

じつは中世時代、渡唐神社から西南にかけての一帯には三本館という平城がありました。
渡唐神社は館から見ると鬼門(東北)の位置にあります。
ゆえに鎮守なのですね。

参考までに、熊谷の高城神社(鎮守)も、熊谷館があったと思われる一帯の鬼門に位置しています。



話を大元に戻して、
上記の文献『新編武蔵風土記稿』にある「権太(さん)」ですが、
彼の末裔にあたる家は、三本の近隣地区の代々の名主で>現存するお宅なので詳細は省きます

「昔、直実さんが所望したので栗毛の馬を譲り、権太栗毛と名付けられ活躍したが、
戦からの帰りに三本まで来たところで死亡。直実さんはそれを悼み、そこに駒形明神を祀った。」(概略)
という伝えが、やはり残っているのだそうです。

また駒形神社別当安穏寺が、この名主さん宅の祈願所となっていたとのこと。
(しかし明治14年(1881)安穏寺は廃仏毀釈のために廃寺となっています)

そりゃあ文献には敵わないかもしれませんが、口伝だって負けてないところが、頼もしいですよね♪




そして私が、駒形明神社についての叙述で悩んだのは、
「一ノ谷の軍果て黒谷に廻り・・・」の中にある「黒谷」。

秩父市黒谷(くろや)か?
金戒光明寺、通称;黒谷(くろだに)か?

直実さんの時代、都へ向かうには鎌倉街道を通るわけで、
一般的に都へは、熊谷から村岡(文殊様の前の道)を上って行ったと予想するのだけど、
黒谷(くろや)も、和同開珎で昔から開けている土地。
まさか直実さん、秩父の山を越えて行く?と思ったのですが、

多分これは、黒谷(くろだに)のことですよね。
金戒光明寺(京都市)は
承安5年(1175)法然比叡山の黒谷(くろだに)を下り、草庵を結んだのが始まりとされるお寺さん。
寿永3年(1184)一ノ谷(神戸)の合戦があり、その翌年の
文治元年(1185)直実さんは初めて法然上人を訪ねています。

そもそも、腹に矢傷を負った権太栗毛が、一ノ谷から遠路はるばる歩いて故郷を目指すという話自体に
ムリがあると思うのですが、実は、矢傷は深くなく、時間を掛けて快方に向かったので、
都を経由して故郷に戻ってきた。けど、あともう少しのところで力尽きた。どっどはらい。

っていう解釈は、いかがですか?(^^;)


余談ですが、
幕末の頃、金戒光明寺=黒谷(くろだに)は、
京都守護職会津藩の屯所が置かれていたことでの方が有名かもしれませんね♪




【参考資料】

『熊谷風土記稿』(1965)日下部朝一郎/著
『大日本地誌大系』(1996)雄山閣/出版
『江南町史 資料編1考古』(1995)江南町/編
『江南町史 通史編 上』(2004)江南町/編   
『江南町史 資料編 民俗』(1996)江南町/編 


今回、地元の方に「オレが昔、当時の年寄りから聞いた話」として、
直実さん・蓮生さんの、いろいろなお話を伺うことができました。

私がUPしてきた内容とは多少の違いはありましたが、
基本的に、駒形神社は直実さんの馬を祀った神社であることには変わりなく、
昔を知る地元の方ならではの、土地に対する深い愛情を感じました。

このまま埋もれさせていくのは、勿体ない神社跡地だと、個人的には思います。

私の記事が、巡りめぐって、神社跡近隣の方達の
保存保護へのムーヴメントのきっかけになると嬉しいけど・・・難しいかな?(^^;)




最後に、反省文。

じつは、『吾妻(東)鏡』『玉葉』にも一ノ谷の描写がある(はず)なのですが、
今回はそこまで調べずに、一連の記事を書いてしまいました。

いつかは、文献にザッと目を通してみたいです。