肥塚の【円光塚】 権太栗毛のこと~その2
平家物語などにも出てくる直実さんの愛馬、権太栗毛を葬ったとされる【円光塚】は、
妻沼街道(県道東松山-太田線)をR-17方面から北進し、梅林堂の北にあるバス停「円光」のすぐ先に
県道から右に入っていく道があります。
元はこちらが妻沼街道(旧道)だったそうなのですが、
そちらの道の左側に平行して走る水路(大麻生用水路・新星川とも)の脇にあります。>写真
妻沼街道(県道東松山-太田線)をR-17方面から北進し、梅林堂の北にあるバス停「円光」のすぐ先に
県道から右に入っていく道があります。
元はこちらが妻沼街道(旧道)だったそうなのですが、
そちらの道の左側に平行して走る水路(大麻生用水路・新星川とも)の脇にあります。>写真
写真の板碑は、旧道から見ると水路の向こう側にあるためアプローチが難しく、
今回は強引に突入せず(^^;)水路越しに写真を撮ることにしました。
今回は強引に突入せず(^^;)水路越しに写真を撮ることにしました。
因みに「これが円光塚ですよ」という案内表示は一切ありませんし、塚という割には盛り土もありません。
でも、地元の方に確認をとったので、写真の場所(というか板碑)が円光塚でOKです(^^)
でも、地元の方に確認をとったので、写真の場所(というか板碑)が円光塚でOKです(^^)
この円光塚は、現在の地図上でいうと「箱田6丁目」にあり、
この塚が由来で地名になったであろうと思われる「円光1・2丁目」は
県道(妻沼街道)を挟んだ反対側となります。
この塚が由来で地名になったであろうと思われる「円光1・2丁目」は
県道(妻沼街道)を挟んだ反対側となります。
参考までに、逆に「円光という地名から塚の名前が付けられた」という説もあります。
円光は、旧肥塚村の小字名。
その肥塚村の南に、旧箱田村はありました。>ややこしくなってきたでしょう?(^^;)
その肥塚村の南に、旧箱田村はありました。>ややこしくなってきたでしょう?(^^;)
地史的に説明すると、
明治22年(1889)熊谷宿と石原村が合併して熊谷町に、
同じ年に、上之村と上川上村と箱田村が合併して成田村になりました。
この時、肥塚村はどことも合併せず、大正12年(1923)単独で熊谷町と合併、
その4年後の昭和2年(1927)成田村は熊谷町と合併しています。
明治22年(1889)熊谷宿と石原村が合併して熊谷町に、
同じ年に、上之村と上川上村と箱田村が合併して成田村になりました。
この時、肥塚村はどことも合併せず、大正12年(1923)単独で熊谷町と合併、
その4年後の昭和2年(1927)成田村は熊谷町と合併しています。
ということは、
実際に円光塚がある場所は、旧成田村の大字箱田ということなのか・・・?
実際に円光塚がある場所は、旧成田村の大字箱田ということなのか・・・?
答えはNoです。
今は箱田の地名になってますが、元々ここは肥塚村の円光でした。
今は箱田の地名になってますが、元々ここは肥塚村の円光でした。
何で地名が変わっているかと言うと、
昔は荒川の流れがこの近辺にあったことに加えて、田んぼのあぜ道&用水路なども加わり
集落の境目が非常に入り組んでいました。
その中で合併を繰り返してきたので、大字小字の地名がそのまま残って現代に至り
地番的には、わかりにくい状態のままだったんです。
昔は荒川の流れがこの近辺にあったことに加えて、田んぼのあぜ道&用水路なども加わり
集落の境目が非常に入り組んでいました。
その中で合併を繰り返してきたので、大字小字の地名がそのまま残って現代に至り
地番的には、わかりにくい状態のままだったんです。
例えば、ちょっと昔(=私が子どもの頃=かなり昔かも(^^;)までは、この円光塚から西側、
県立高校2校、市立中学校、大原墓地、そして「かめの道」(旧東武鉄道妻沼線跡)の向こうまでの一帯は
大字熊谷(飛び地)という地名でした。
県立高校2校、市立中学校、大原墓地、そして「かめの道」(旧東武鉄道妻沼線跡)の向こうまでの一帯は
大字熊谷(飛び地)という地名でした。
なので、現在の生活道路に合わせた地番の整理がなされて、
今は「箱田」に円光塚がある状態になっているんですね。
つまり、写真の場所は、かつては肥塚村円光という地名でした。
今は「箱田」に円光塚がある状態になっているんですね。
つまり、写真の場所は、かつては肥塚村円光という地名でした。
自分で説明しててナンですが・・・込み入ってますね(^^;)
話を円光塚に戻しま~す。
話を円光塚に戻しま~す。
この塚については、権太栗毛とは別の伝承もあります。
蓮生(直実)さんが京都より故郷熊谷へ帰るときの有名な物語、
「東行逆馬(1195)」の馬が熊谷の念仏庵(現在の箱田念仏堂:蓮昭寺)に着いてから、
いつもこの辺まで草を食べに来ていたが、ある日病で死んだので哀れに思い、此処へ埋め小さな塚とした。
というものです。
蓮生(直実)さんが京都より故郷熊谷へ帰るときの有名な物語、
「東行逆馬(1195)」の馬が熊谷の念仏庵(現在の箱田念仏堂:蓮昭寺)に着いてから、
いつもこの辺まで草を食べに来ていたが、ある日病で死んだので哀れに思い、此処へ埋め小さな塚とした。
というものです。
また、
天正年間(1573-1592)に浄財を勧募し、
熊谷寺を再興した幡随意上人(安土・桃山時代初期の浄土宗の高僧)が
蓮生さんゆかりのこの地に、自ら筆をとって「如是畜生発菩提心転生性」の石碑を建てたことから
別称として【畜生塚】とも呼ばれるようになったとのこと。
天正年間(1573-1592)に浄財を勧募し、
熊谷寺を再興した幡随意上人(安土・桃山時代初期の浄土宗の高僧)が
蓮生さんゆかりのこの地に、自ら筆をとって「如是畜生発菩提心転生性」の石碑を建てたことから
別称として【畜生塚】とも呼ばれるようになったとのこと。
因みに『肥塚の今昔』の資料のみ、最後の2文字が「~発菩提心転性霊」となっています。
資料の古さ&(私のいい加減な)語感の印象から言うと、コチラ↑の説の方が
合っているような気がしますが、いかんせん肝心の石碑は土に埋まってて、
下の方の文字は読めないのでした・・・。
資料の古さ&(私のいい加減な)語感の印象から言うと、コチラ↑の説の方が
合っているような気がしますが、いかんせん肝心の石碑は土に埋まってて、
下の方の文字は読めないのでした・・・。
この日は、遠目から見ても「如是畜生」の文字が確認できたので、
水路を越えずに写真を撮ったのですが、この写真↑では文字確認は難しいですね(^^;)
水路を越えずに写真を撮ったのですが、この写真↑では文字確認は難しいですね(^^;)
『肥塚の今昔』には、このように↑名前がありましたが、
先日、聖天さまで確認したところ、
明治~大正にかけて院主をお勤めになった「鈴木英良」師だと思われます。
現院主さまから
「実際に院主になられてからでは、忙しい毎日だったろうから、
多分、小僧さんの時代に、橋に使われてる石碑に気づいたのではないだろうか。」
と伺いました。
先日、聖天さまで確認したところ、
明治~大正にかけて院主をお勤めになった「鈴木英良」師だと思われます。
現院主さまから
「実際に院主になられてからでは、忙しい毎日だったろうから、
多分、小僧さんの時代に、橋に使われてる石碑に気づいたのではないだろうか。」
と伺いました。
泥橋が主流で、木橋ましてや石橋は貴重だった昔、
古墳の石棺や路傍の石碑が、別の用途として生活の中で必要だったとはしても、
「粗末にしては、いかん!」と仰ったかどうかは、わかりかねますが、
とにかく、貴重な石碑に気づいてくださった当時の院主さまに感謝です(^^)
古墳の石棺や路傍の石碑が、別の用途として生活の中で必要だったとはしても、
「粗末にしては、いかん!」と仰ったかどうかは、わかりかねますが、
とにかく、貴重な石碑に気づいてくださった当時の院主さまに感謝です(^^)
そんな経過から推測するに、
仮に、この円光塚を発掘したとしても、多分きっと何も出ないんでしょうね・・・ロマンだなぁ(うっとり)
仮に、この円光塚を発掘したとしても、多分きっと何も出ないんでしょうね・・・ロマンだなぁ(うっとり)
次の【駒形神社】は、今週中にはUPしたいです~(^^;)
【参考資料】