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「星の宮」の地名が消えていくことについて【星宮夜雨】其の二: 熊谷八景④

星宮夜雨(ほしみややう)
夜雨:rainy night というよりは、night rain ・・・の他に説明のしようがないですね(^^;)

「八景」については、こちら↓
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/54763151.html


あけましておめでとうございます。
やっつけ仕事だった昨年分の「前半」をコッソリ(^^;)正調版モドキに直しました。
いろいろとご挨拶したいのですが、またもやY!ブログにはじかれましたので(TT)ムキ~ッ
とっとと「星宮夜雨:後半」まいります。
今回は、忍の成田氏に仕えていた星野外記さんの子孫の方々をメインにお届けします。


さて忍城開城の後、時代は戦国から江戸へと移っていくわけですが、
まずはここで、ちょっとだけ歴史のお勉強♪ テーマは町民自治です。

江戸時代、
宿場町では「名主」「問屋」「年寄」「月行司」などの宿役人による自治が行われていました。
藩に届を出して許可を受けた上での自治ですから、独立性は制限されていましたが、
コミューン的な「内輪でガッツリ!」のパワーは、それなりに強く機能していたらしく、
熊谷宿では、それらの役職は「財産のある家の終身世襲制名誉職」となっていました。

もちろん何がしかの理由で、他の家が入れ替わりに役職を受けもつということもありますが、
それはそれで時代の流れというか、栄枯盛衰を暗示しているようで、興味深くもあります。


また、熊谷には「百石組」という「所有する土地の維持保全」を目的とした地主集団の組織があって、
各人が所有する土地を約100石(=約1ha=100m平方)で1グループ(一組)とし、
これを全町内で15組作り、年貢取り立て&組合員の土地売買質入などの場合には立ち会うなど、
土地に関する事務を管理していました。

これは↑つまり、
縁戚関係の理由や、熊谷宿においてそれなりの実績を積み上げてきた人に土地を一筆分割するならまだしも
ポッと出のよそ者には、そう簡単に土地を所有させない。という「意思」を読み取ることができます。
これは熊谷に限らず、地方都市の中心地(繁華街)は
「建物物件数>地主さんの総数」という数式が成り立つことからしても、
当たらずとも遠からじの推測だと・・・(^^;)昔から不動産のウエイトが高いお国柄デス。

ちなみに「一石」は、1人の成人が1年間で消費する米量(2.5俵)を表し、
長ずるところ、百石組は「全員の土地を合わせれば、100人を養うだけの財力があるグループ」
ということを表しています。
ついでに言えば、十万石なら10万人の兵力を維持する財力があるという意味です。


話を戻します。
で、この「百石組」の資料を見ると、
1648~1852(約200年間)の、熊谷宿の土地所有者の変遷を追うことができるんですね。

江戸時代初期は、少ない人数で沢山の土地(筆)を所有していた様子がうかがえますが、
後半になってくると、分家筋や新規で名簿に記載される名前が増え、
熊谷の町が人口増で賑わってくる様子が資料から読み取れます。

そんな情報↑がタップリ詰まってる『熊谷市史 前編』の中に、
近世近代の熊谷を牽引してきた「旦那衆」の名前を複数、見つけましたが、
さすがに人数多くて追いきれませんので(^^;)とりあえず「星野外記」さんの追跡をしてみました。


以下『熊谷市史前編』等に掲載されていた「星野氏」の名前を系列だてて並べてみました。
「>」を頭につけた文は、私の個人的なコメントです。

天正6年(1578)の時点で、星野外記(初代)熊谷出張。>多分まだ仮住まい。
天正9年(1581)「星野宮の石祠」の示す年。>このころ「星の宮」の土地に多分、本住まいとした。
天正10年(1582)星野外記、神流川合戦に忍衆(北条側)として参戦。
天正18年(1590)忍城戦。開城。成田家臣団解散。

        >星野氏(2代目3代目のときに)多分、本町に移転。>この間58年記録なし。

慶安元年(1648)~天和4年(1684)5番組・星野兵右衛門(4代目)>少なくとも36年間月行司を在職。
天和4年(1684)月行司 星野兵右衛門

貞享3年(1686)月行司 星野十郎左衛門>多分、下記「重郎左衛門」と同一人物であろうと思われる。
正徳5年(1715)月行司 星野重郎左衛門(5代目)>多分この人が石祠を建立>29年間は月行司在職。

享保4年(1719)帳付役人衆 星野徳右衛門(6代目)

元文3年(1738)月行司 星野源左衛門(7代目)
元文3年(1738)忍藩書上に「月行司 星野源左衛門 6代以前熊谷町へ罷出
        代々月行司役無怠慢相勤申候 凡百五十年余居住仕候」>長年の勤め御苦労である(意訳)

ここまで↑の記録が、
「星の宮」が載っている『熊谷町古絵図』(1752)より、昔のことだから、

正徳5年(1715)に月行司を務めていた「星野重郎左衛門(5代目)」さん(玄孫)が、
ひいひいおじいちゃん(高祖父)をしのんで、星野宮の祠を建立したのではないかと予想されます。

この仮説↑を補強するものとして、
元文3年(1738)星野源左衛門(7代目)の時代の忍藩の書状に書いてある
       「6代以前熊谷町へ罷出」「凡百五十年余居住仕候」の文言を照らし合わせて系譜を溯ると、
ちょうど都合良く♪
「星野外記さん」が初代として約150年前に熊谷に土着したことが符合するというわけです。


『市史』を片手に「6・・5・・4・・」とカウントしつつ、外記さんが初代にぶつかった時は、
思わず「yes!」と、図書館で口走ってしまったほど(^^;)ものすごくトキメキましたが、
歴史ってこんな風に「ストーリーが作られる」のか~ と、逆に恐ろしくもなりました。


「星野氏」は、その後も宿役人として
宝暦6年(1756)月行司 星野兵右衛門(多分8代目)
宝暦7年(1757)月行司 星野重郎左衛門(多分9代目)
と、代を重ねますが、

「百石組」の記録を追っていくと
慶安元年(1648)~天和4年(1684)の記録では、4代目の兵右衛門さんは5番組に属しているのですが、
しかし、その約80年後の
宝暦10年(1760)の記録には、5番組のその場所に星野氏の名は記載されず、別の方の名前が入っているのです。
ただし、9番組に兵右衛門さん(←4代目と同名ですが8代目)の名があり、
また、親戚筋でしょうか、14番組に星野半兵衛さんという名が記載されています。 
         
そして、この↑10年後の
明和7年(1770)月行司 星野重郎右衛門(多分10代目)の記録を最後に、
宿役人としての星野氏の名は、記録に載っていません。
また、
嘉永元年(1848)~嘉永5年(1852)の「百石組」の記録にも、星野氏の名はどこにもありませんでした。

星野さん一族は、何がしかの理由で「記録に残らない人たち」になられたのだと、私は想像します。


さて、その星野さんの家屋敷があった場所ですが、
資料を突き合わせると、どうやら「本町2丁目」にあったみたいで>詳細は、ここではカットします
その後、別の家がその星野家跡の土地を所有することになったが、
婚姻関係で、さらに別の家がそこに住まう(所有する)ようになった。
という流れがあることがわかりました。

そして現代(昭和)に話は飛びますが、
「星野宮の祠」は、本町2丁目の星野家があった場所から発見され、
再び「星の宮」の場所に戻されたのだそうです。>具体的な年代は資料によってまちまちなので省略。

つまり、
かつて「星の宮」にあった祠は、多分「星の宮」の土地が、星野家の手を離れたときに、
本町の星野家敷地内に移ってきたのでしょう。←あくまでも私の勝手な予想です。

そして星野家自身も本町の屋敷を引き払い、次々と土地屋敷の持ち主が変わっていく中で、
それでも、八景に詠われたように「星の宮」の地名だけは、祠がなくても筑波の地に残り、
昭和の時代になって本町で見つかった石祠は、元の場所「星の宮」に戻された。

なんだかロマンを感じませんか?(^^)
私が「石」に妙な執着をもつ理由は、まさに、こんなところにあるんですね。
人の思いをつないでいるって、私は感じるんです。>実は、墓石も大好きです!>あぁついに・・・


しかし現在は、もはや史蹟を通りすぎ「伝・星の宮」となってしまいましたので、
地元の郷土史家の方が「星野宮の石祠を再び発見!」とかの企画を立てて行方を追跡なさるのが、
よろしいのではないかと勝手に思っているのですが・・・どうでしょう(^^;)

私には、どうか結果だけでも教えていただければ大満足です♪>主婦には手に負えませぬ・・・


ザッとですが、以上で「星宮夜雨」については、おしまい(^^)
以下、余談です。

忍城戦については『行田史譚』を前回お勧めしましたが、
成田氏について興味をもたれた方には『成田記』をお勧めします。
この本なら、表題の他『忍城戦記』『成田家記』『成田系図』などが「書き下し文」で読めます。

私は「分限帳」に拘りすぎていて『成田記』を手にしたのは、かなり後だったのですが、
「これを最初に読んでおけばよかった・・・」と、大ショック!
時間泥棒っているんだなぁ~と、自分の所業を呪いました。

あと、私が妙なテンションで反応している(^^;)『のぼうの城』。
作風としては、日本語回しと構成に少々クセがありますが、
登場人物のキャラ立ちとストーリー展開のスピード感で、多分、一気に読める小説だと思います。
2年前の記事ですが↓ご参考までに♪ ネタバレはアリマセン。
http://blogs.yahoo.co.jp/sakurasou14/55357614.html

それにしても、
星野さんは私とは全く縁のない方でしたが、「家系」というものを辿ったのは初めてのことでした。
これは実に面白いです! 改めて自分自身のルーツを追ってみたくなりました。
このブログが一通り終わったら着手できるかしら・・・と、遠い目をしてみる。


最後になりますが、
よろしかったら、お近くの「星野さん」に、このブログ記事の概要を
「星野氏の名前が、つい最近まで熊谷の土地に残っていたこと」をお伝えいただけると嬉しいです。
もしかしたら「外記さん」をご先祖に持つ方かもしれませんので(^^)


【参考資料】

熊谷市史 前編』(1961)熊谷市編集委員会/編 
熊谷市史 後編』(1964)熊谷市編集委員会/編
熊谷市銀座史誌』(1975)渡辺和則/著  
熊谷市郷土文化会誌第24号』(1971)熊谷市郷土文化会/編 
『成田記』 (1940)小沼十五郎/著
『幽嶂閑話』(1935)林有章/著
http://www.tokyovalley.com/yahoo_blog/article/article.php